『御巣鷹山と生きる −日航機墜落事故遺族の25年−』

 1985年(昭和60年)8月12日午後6時54分。羽田発伊丹行の日航123便の機影はレーダーから消えた。日航ジャンボ機御巣鷹山墜落事故である。520人が事故に巻き込まれ、命を落とした。このときから残された家族の戦いと慰霊が始まる。事故の遺族は関係者ではない、という理由で事故調査から締め出された。残された家族は、「8・12連絡会」を結成し、連帯した。この会は遺族会という名の補償交渉の窓口ではない。遺族同士の絆で互いに支え合うことが会の目的となっている。そして政府や日航には事故原因を明らかにして再発防止に努めることを要求していく会となっている。
 この「8・12連絡会」の事務局長である美谷島邦子さんは、仲間とともに社会に向けて事故の原因究明と空の安全対策の実施を広く訴え続け、少しずつではあるが、社会を動かし、航空会社や政府の考え方を修正させていき、遺族に寄り添った政策がひとつずつ実現してきた、その原動力になって動いてきた人だ。

御巣鷹山と生きる −日航機墜落事故遺族の25年−』(美谷島邦子著)(新潮社)
(2010年6月25日初版発行)

御巣鷹山と生きる―日航機墜落事故遺族の25年

御巣鷹山と生きる―日航機墜落事故遺族の25年

 本書は、美谷島邦子さんが事故を風化させたくない、という一点によって書かれた書籍である。今年は2017年。そして事故が起きたのは1985年。もう32年も前になる。520人という大勢の人が一瞬にして命を喪った。東京と大阪を結ぶ夕方の便ということでビジネス客が大勢搭乗していた。夫や妻、父や母、子を喪った家族の苦悩は計り知れない。著者の美谷島さんは9歳の息子さんを亡くした。この事故はいくつかの物語として紡がれている。山崎豊子さんの『沈まぬ太陽』や、横山秀夫さんの『クライマーズ・ハイ』は映画化もされている。映画では、お母さんが息子さんの手を引いて搭乗口まで一緒に来て、航空会社の地上勤務の女性にその子を託して、手を振って「いってらっしゃい」「いってきます」と別れるシーンがあるが、そのシーンのモデルが美谷島さん親子である。息子さんの名前は健ちゃんという。
 事故の後の状況は経験した者でないとわからない。でも想像することはできる。一緒に寄り添うための指針にもなる。本書は苦しむ人たちに対して、私は何ができるのだろう、という最初の疑問を提示してくれる。
 さらに本書は安全対策や慰霊の問題、責任の所在、遺族の心のケアなどのさまざまな問題を読者に対して提示し、「8・12連絡会」の25年間の歴史資料でもある。
 本書を読み、ご遺族のみなさんや関係者のさまざまな努力に敬意を表するとともにその行動力に脱帽するのだ。

 美谷島さんの不思議な経験が書かれている部分がある。ある日突然“私の心の中にストーンと健が入ってきた”と書かれている。2階建ての新幹線をみて、健ちゃんの知らない車両だ、と美谷島さんは思った途端に、その経験をした。それは他の人にはわからないことかもしれないが、美谷島さんは“その日から、健は私といつも一緒にいる、心の中で生きている”と思うようになっていった。という。美谷島さんが一歩前に進むことができた瞬間なのだろう。このような経験は実は、それぞれの人がさまざまな形で経験していることであり、それを意識しているか、していないか。あるいは、そのような潮の変わり目を覚えているかいないか、という差なのかもしれない。むろん最愛の息子さんを亡くされた美谷島さんの深い悲しみには及ぶことはできないが、それぞれの人は一生の間に家族を亡くしていく。あるいは若かったら大失恋もあるし、就職や受験に失敗して失意の内に日々を過ごしている人は大勢いる。そういう人たちもこの美谷島さんの経験、この潮の変わり目に遭遇しているのではないか、この経験をして人は前に進む気力を得て、そして一皮むけるのではないか、と思うのだ。忘れ去るのではなく、自己の体の中、心の中にそれらを吸収してしまうのだ。もしかするとそのように吸収してしまうことが忘れる、ということなのかもしれない。
 というふうに思ったのであるが、本書の最後に美谷島さんはこんなことを書いている。
 「私は、悲しみは乗り超えるのではないと思っている。亡き人を思う苦しみが、かき消せない炎のようにあるからこそ、亡きとともに生きていけるのだと思う。」
 ここまで読み進めて、上記のこと、潮の変わり目とか、吸収することが忘れることなどと思ったことが実は間違いであったことにようやく気づいた。忘れることはできない。吸収してもそれは忘れることではない。共に歩んでいくことなのだ。そうやって美谷島さんはじめご遺族は今も歩まれている。そのことを理解できたことが本書の読後、最大の収穫と云えるだろう。

 御巣鷹の尾根は、現在、運輸交通災害の聖地になりつつあるという。信楽鐵道列車衝突事故(1991年)、名古屋空港での中華航空墜落事故(1994年)、福知山線脱線事故(2005年)、竹ノ塚駅踏切事故(2005年)、さらにシンドラー社エレベータ事故(2006年)などのご遺族が毎年、御巣鷹の尾根に集うという。慰霊は記憶だ。慰霊することで、ご遺族は亡くなった方々と共にいることを確認する。そして、われわれは事故を思い出し、事故を風化させず、安全対策を怠らないことを誓うのだ。そのために慰霊がある。慰霊はご遺族だけのものではない。私たちこそ、慰霊という行為が必要だと思う。
 大災害には、慰霊のためのしくみが必要だ。ご遺族の心を癒やし、再発防止や安全対策を考える拠り所となる。過去の慰霊場所は、たとえば原爆ドームが真っ先に思い浮かぶ。関東大震災では、最大の死傷者が出た被服工廠跡地に東京都の慰霊堂が建つ。その流れで云えば、建築物や被災遺構の保存という方法ではないものの、この御巣鷹の尾根は充分に慰霊のしくみになっているのではないだろうか。かなり深い山の中にあるので、巡礼者は一歩一歩時間を掛けて進むことがすなわち慰霊の行為になっているのだろうと推測される。
 東日本大震災でも慰霊のしくみが必要なのだが、6年と10ヶ月経った今、はっきりとしたものがまだない。
 美谷島さんは、東日本大震災のとき、児童と教師の74名が津波に呑まれて亡くなった事故の「事故検証委員会」のメンバーに選ばれている。まさに原因究明と安全対策、そして慰霊のしくみを考え、社会を動かした人たちの代表としてそこに名を連ねているのだろうと思った。
 悲惨な事故と事件を忘れないために私たち、生きている者がやらなければならないことは多い。