『のこった −もう、相撲ファンを引退しない−』

 角界が喧しい。
 問題点としては2点ある。
 ひとつは、土俵上の取り組みに対する批評ではなく、大相撲を主催している公益財団法人日本相撲協会に対しての批判や意見である。それらが世間に入り乱れている。その運営方法や管理能力に対して、さまざまな人たちがさまざまな意見を吐き散らかしている、という印象。そのような外からのたくさんの批判や意見に対して、日本相撲協会はしっかりそれらに向き合っている、という印象はない。はぐらかしている、とまでは云わないが、黙っていればそのうち収まる、と考えているのではないか、という態度のような感じ。それから、素人が伝統ある大相撲のことにとやかく口を出すな、という上から目線の横柄な態度も隠しているような気になってしまうのは、私だけではないはずだ。
 もうひとつは、関取たちに直接、投げかけたい事柄。弱い横綱。強すぎてオレ様になっている横綱。故障を押して出場するから、さらに悪化させ故障が長引いてしまう関取たち。そもそも関取たちに故障者が多すぎること。・・・そういう関取たちに対する物言いもたくさん噴出している。
 とにかく、長年の相撲ファンとしては、この処のおすもうを巡るごたごたがもどかしくて歯がゆくて仕方ない。

『のこった −もう、相撲ファンを引退しない−』(星野智幸 著)
(発行:ころから)(2017年11月17日発行)

のこった もう、相撲ファンを引退しない

のこった もう、相撲ファンを引退しない

 著者の星野智幸氏は、日本を代表する小説家である。今回、本書が刊行するにあたり新聞に載ったその紹介記事には、星野智幸氏は幼少時より熱烈な大相撲ファンであり、2003年に貴乃花が引退したときに、一度はきっぱりと大相撲を観なくなった。と書いてある。そして約10年のブランクを経て、2014年に久しぶりに大相撲を観始めたら、相撲の会場も相撲を観ている世間も10年前とは様変わりしており、様子が違っていることに著者は驚き、憤慨している。
 本書は、星野智幸氏がどういう経緯で大相撲を観ることを止めたか、また再びどうして観始めることになったか、そして古くからの大相撲ファンである星野智幸氏が大相撲を巡る現状をどう考えているか、が丁寧に書かれているエッセーである。本書の最後に星野智幸氏の最初の小説(相撲小説)が掲載されている。この作品は氏が始めて文学賞に応募した作品であり、落選している小説である。まさにおまけとして楽しく読める作品である。

 相撲は国技だ。と云われている。が、「国技」ってなんだろう。「国技」という言葉が大相撲を観戦するときに不必要なナショナリズムを煽っているのではないか。ここ10年以上に渡ってモンゴル人力士が大相撲の土俵を席巻している。日本人関取による幕内優勝が望まれ続け、ついに三年前(2015年)の初場所琴奨菊が優勝した。これにより、大相撲におけるナショナリズムは最高潮に盛り上がり、以後、場所中の雰囲気は、日本人力士を過度にたたえ、たくさんの声援を送り、反対に外国人力士(主にモンゴル人力士)には、声援を送らない(実際に執筆子は彼らに対して歓声が極端に少ない状況をたくさん目撃している)のだ。
 相撲は土俵で一対一の勝負をする、孤独な競技だ。個人競技の極みと云ってよい。素晴らしい勝負、いい相撲に対する大声援ではなく、力士の出身地で声援を区別していることがそもそもマナー違反なのだ。そのような相撲の見方は邪道である。
 本書は、出身国によって差別せず、技や土俵での態度を観る純粋な相撲観戦を是とし、現状を憂いている。
 そして大相撲が八百長問題や暴力事件に揺れていたとき、ひとり横綱として、土俵に立ち続けていた白鵬を讃えている。白鵬の評価はさまざまであるが、あの大相撲の危機のときに、かれは大相撲を支えていたし、また数々の記録を塗り替えた彼の相撲を同時代に観られたことを喜んでいる。

 大相撲に関してはさまざまな意見がある。本書はその中のひとつの意見である。でもその意見はとても傾聴に値するいい意見だと思う。

 この原稿は、2月2日の日本相撲協会理事選挙の後に書き始めた。その後、2月7日に民放で渦中の貴乃花親方に対する単独インタビューが放送された。土俵の外が喧しすぎる。