『謎ときシェイクスピア』(河合祥一郎)

第1回 謎ときシェイクスピア

 本が好きだと云って40年。芝居が好きだと云って30年。
芝居を観ることと本を読むことは、大好きですが、“三昧”とか“中毒”とか、そこまでには至っていません。なぜならば、たとえば映画や話芸(落語、講談など)、それから登山、サイクリング、彫刻や絵画鑑賞など、他にもおもしろそうなことがあればふらふらと近づいて、それに首を突っ込むたちだからです。父親によく云われました。「おまえは落ち着きがない」と。あれこれ中途半端にやってきて、それでも一日も欠かさずしていることと云えば、「日記をつけること」だということに最近気がつきました。それはノートに鉛筆で書く、という極めてアナログなものですが、読み返すと結構おもしろい。まあ、ひとさまが読めば退屈かもしれません。その日記の中には読んだ本の感想や観た芝居の講評などが書いてあるわけです。大雑把なあらすじが書いてあり、そして印象深い登場人物について誰に遠慮するわけでもなく大胆に書いています。これは我ながら感覚として悪くない印象なんです。手前みそでごめんなさい。〔書評〕のメルマガなので、芝居の感想を書くわけにはいきませんが、芝居に関する本をひとさまに紹介してゆこうと思います。その方法は、自分の日記に書くように。ということですが、それは自己本位になる、ということではありません。赤裸々に臆面もなく、ということを目指したいと思うから、敢えて日記をつけるように、と表現しました。

『謎ときシェイクスピア』(河合祥一郎 著)(新潮選書)(2008)

謎ときシェイクスピア (新潮選書)

謎ときシェイクスピア (新潮選書)

 今や日本を代表するシェイクスピア学の俊英となった河合祥一郎の著作である。河合はシェイクスピアはもちろん、イギリスの演劇論の専門家である。また「マクベス」を日本の戦国時代に置き換えた芝居である『国盗人』の作者であり、最近は『按針 ANJINイングリッシュサムライ』の脚本も手がけている。その河合が“シェイクスピアとは誰なのか?”という古くからある疑問に挑んだのが、本書『謎ときシェイクスピア』である。
 シェイクスピアは手紙や日記を残していない。彼は自分の書いた戯曲だけを残した。それがシェイクスピア研究をむずかしいものにしている原因であり、また古くから「シェイクスピア別人説」が唱えられる所以である。そもそも、「教育のない田舎者の役者シェイクスピアに、知性と教養にあふれた偉大なシェイクスピア作品が書けたとは思えない」という発想がこの「シェイクスピア別人説」の出発点である。役者シェイクスピアとは別にシェイクスピアを名乗る蔭の劇作家がいたのではないかと疑い、その別人として哲学者、貴族、劇作家、外交官、と多彩な人物が挙げられている。本書で河合はそれらの別人候補たちひとりひとりについて反論し、やはりシェイクスピアはストラットフォード・アポン・エイヴォンで生まれた役者もしていたシェイクスピアである。と結論づけている。この有力な別人説に対して丁寧に反論をしている部分が前半の読みどころとなっている。シェイクスピア本人が日記や手紙という資料を残していないので、彼の出自や他の記事でシェイクスピアに触れているものを参考にシェイクスピアの生涯を再構築してみせるのである。そうすると、やはりシェイクスピアシェイクスピアに違いない、と思わずにはいられない。少ない証拠から見事な論理を形成してシェイクスピア像を描き出している処はまさに圧巻である。
 後半で問題になっているのは、従来シェイクスピアを読み解くための基本的テクストとされていた、シェイクスピアと同時代に活躍した劇作家ロバート・グリーンの『三文の知恵』という本についてそれがシェイクスピアに関する基本的資料ではない、ということを論じている。この『三文の知恵』の中に書かれている“成り上がり者のカラス”と云われている男がシェイクスピアである、という意見は、現在のシェイクスピア学ではほぼ定説になっている。そして多くの学者はこのことを前提にしてシェイクスピアの人間像や生涯を構築している。グリーンはこの本の中でシェイクスピアのことを、役者のくせに自分たちと同じ劇作家として出てきて、しかも素晴らしい戯曲を書いている、と云い、その記載の仕方を後世のシェイクスピア学者たちは、グリーンがシェイクスピアに嫉妬して“成り上がり者のカラス”と表現している、と考えてきた。河合はこのことに反駁を加え、“成り上がり者のカラス”はシェイクスピアではなく別人である、という考えを示した。ここで重要なことは、シェイクスピアが生きていた16世紀から17世紀のイギリス−エリザベス朝時代と云われている−が現在我々が生きている21世紀とはその状況が大きく違っている、ということである。たとえば当時は著作権など存在せず、劇作家の地位は役者よりも劣っていた。そのようなエリザベス朝時代の状況であるから、“成り上がり者のカラス”はシェイクスピアではない。という論理になっている。ここでも河合は根気よくひとつひとつ例証を挙げて、自説を展開している。ではそれは誰か、ということは本書を読んでのお楽しみである。この部分は上質な推理小説を読んでいるようなおもしろさがある。
 本書『謎ときシェイクスピア』を読めば、シェイクスピアの芝居がさらに楽しめるようになる。シェイクスピアファンにはたまらない一冊だ。