『リチャード三世は悪人か』(小谷野敦) ほか

第2回 リチャード三世に魅せられる

 シェイクスピアの戯曲の中で「リチャード三世」は、最も上演回数の多い演目だと云われている。宮廷内の権謀、裏切りや寝返り、嫉妬や虚言、さらに殺人などの不誠実な行為の一方で慈愛や勇気、正義などの徳目がたくさん表現されている。それらが彼の素晴らしい台詞によっていきいきと描かれている戯曲だ。また戦闘の場面も手を抜かず、しっかり書かれている。この芝居を観るとシェイクスピアは偉大な詩人であり豊かな戯曲家であることがつくづくよくわかる。
 今回ご紹介するのは、その「リチャード三世」を巡る本の話。

 『リチャード三世は悪人か』
 『時の娘』
 『リチャード三世「殺人」事件』

 シェイクスピアはこの「リチャード三世」の中で、タイトルロールであるリチャード三世を極悪人として描き、肉体的には片腕が萎え、足の長さが違うために普通に歩けず、さらに背中の曲がったせむしにしてしまった。リチャードが犯した罪の中でも最大のものは兄であるエドワード四世のふたりの王子たち(正統な世継ぎ)をロンドン塔で窒息死させたことである。このことが、以後400年以上にわたり、リチャードをして史上最悪の王という立場に立たしめている。自分が権力を奪取するためにいたいけな可愛い王子たちを何の斟酌もなく殺してしまう、没義道な冷血漢。
 一方で、このリチャード三世には強力な応援団が存在する。彼らはリチャードを擁護し、リチャードの名誉を回復しようとしている人たちである。そのような人々を“リカーディアン”と呼んでいる。彼らはリチャードが賢く徳の高い王であり、決して暗殺によって権力を登りつめたわけではない、と主張している。感情としてそう云っているのではなく、しっかりとした証拠がある、と彼らは主張する。
 リチャード三世がそのような相反するふたつの人物像が存在するのはなぜか?
 その疑問に応えるのが、一冊目の『リチャード三世は悪人か』(小谷野敦 著 NTT出版 (2007))なのである。
 イギリスの歴史をみると、12世紀から続いていたプランタジネット朝がこのリチャード三世の死(1485年)を以って終わり、チューダー朝となる。王朝が交代したわけである。王朝が変われば、現王朝の正史はその前の王朝のことをよくは書かないのが洋の東西問わず、共通した事実であり、イギリスも例外ではない。リカーディアン派の言い分は、その一点に尽きている。前王朝を悪しざまに描くことによって現王朝の大義名分を確立した。リチャードはその犠牲となったのだと。リチャードの最大の罪とされている二人の王子殺しは、チューダー朝初代王となるヘンリー七世が行ったことであり、リチャードは無実の罪を着せられているという。もう一つ云えば、チューダー朝エリザベス一世統治下で戯曲を書いていた若きシェイクスピアは、現王朝を否定するようなリチャード三世擁護論には耳を傾けるわけにはいかない事情があった。シェイクスピアはまさにエリザベス女王に認められることによってその存在を保ち、名戯曲家としての階段を上ったのであるから。

 本書(『リチャード三世は悪人か』)は、このようなリチャード三世善玉説と悪玉説と云えるふたつの議論を平易な文章で紹介している。そして、本書が出版されるまで、この論争について日本語で読める書籍は、次に紹介する『時の娘』のみであったことを付け加えておく。それはまさに驚きである。日本人が他国の歴史に興味を失っている証左か、それとも善玉説があまりに少数派なので、わざわざ紹介するまでもないことなのか。

 『時の娘』((The Daughter of Time)Josephine Tey(1951) ジョセフィン・テイ 著  小泉喜美子訳  ハヤカワミステリ文庫(早川書房)(1977))
 推理小説史上に燦然と輝く不朽の名作、と云われている。いわゆる“安楽椅子探偵”ものであるが、主人公は出歩くのが億劫になった老人ではなく、活動的な現役のロンドン警視庁の警部が職務上の怪我で入院中の物語である。したがって、彼、アラン・グラントの病室が唯一の舞台である。リチャード三世が悪人のレッテルを貼られていることに疑問を呈し異議を申し立てる。この極めて高度な歴史研究を平易にして表現し、しかもそれを学術論文のような堅苦しい文章ではなく、普通の小説、就中、推理小説にしている処がみそである。疑惑があり、小さな状況証拠があり、常識とされていた証拠を疑い、それの反証を見つけ出し、事実とされていたものを覆す。それはつまり普通に人が疑問を持ち、それに対する調査をしてそして解決してゆく手順に他ならない。
 主人公の最初の疑問は、リチャード三世の肖像画であった。とても暗殺や恫喝や裏切りによって王位を極めた残忍な人物には見えない。人品骨柄極めて高貴で穏やかで賢者の風格さえある人物に見える。そこからリチャード三世について入院中の暇を持て余したこの敏腕警部がガールフレンドや歴史を研究している気のいい青年などの協力を得て、リチャードの真の姿を探り出し、またなぜ真実を捻じ曲げてリチャードを貶めるようなことになったのかを調べていく。
 普通の推理小説仕立てであるが、極めてアカデミックな内容であり、知的好奇心を大いに満たしてくれる良書である。

 『リチャード三世「殺人」事件』 ((The Murders of Richard?)Elizabeth Peters(1974)
 エリザベス・ピーターズ 著  安野 玲訳  扶桑社ミステリー(扶桑社)(2003))
 文庫版の裏表紙に記載されている本書の紹介文には、名著『時の娘』へのオマージュ、と謳われている。
 本書は『時の娘』よりも軽い文章で、すらすら読める。『時の娘』は文献の引用が多く、読みにくい箇所があるが本書はそんなことはない。手軽に気軽に読み進められる。その理由としてひとつには、リチャード三世は本当は素晴らしい王であったというリチャード三世善玉説(リチャード三世を擁護する側(リカーディアン派))の説明がない、ということが云えるだろう。つまり、想定している読者は既にリチャード三世善玉説を常識として知っている、ということが前提である。さらに云えばそれは、『時の娘』をちゃんと読んでいるということが、本書の最低限の条件と云える。その意味でまさに本書は『時の娘』へのオマージュである。
 本書は実際に物語の中で犯罪が行われる。それもちゃんと動機がある犯罪である。それをアメリカの大学で図書館の司書をしているジャックリーン・カービーというなかなかセクシーな女性が解決するお話である。このセクシーな女司書を巡る男性陣の間抜けな行動が、解決への道筋をすこしだけ複雑にしている。この小説の登場人物たちが、リチャード三世本人をはじめとして、彼を巡る人々に仮装してパーティをするのだが、その時に次々に彼ら仮装した人々が実際に史実のとおりに死んだ順番に襲われる。その過程がリチャード三世論争を知っている読者には面白く感じられるはずである。