『芸づくし忠臣蔵』(関容子)

第3回 忠臣蔵を観る

 日本人の生活や行動様式、あるいは考え方など諸々の事柄に深く根付いている「忠臣蔵」。この物語が最も早く完成された形で登場したのが、人形浄瑠璃の「仮名手本忠臣蔵」。寛延元年(1748)に大阪の竹本座にて初演された。実際の事件から48年目のことである。二代目竹田出雲・三好松洛・並木千柳の三名による合作と云われている。そしてその年のうちに人間が演じる、歌舞伎でも初演されたそうな。
 なぜ「仮名手本」なのか。仮名の数は四十七。四十七士と同じであり、複雑なこの事件を仮名交じりのわかりやすい文章で紹介しましょう、という意味があるという。
 それから250年間、この「仮名手本忠臣蔵」は歌舞伎の最高傑作のひとつに挙げられ続けている。近代になり映画が生まれ、そしてテレビが誕生しても、この「仮名手本忠臣蔵」は“忠臣蔵”の原点として、その存在を示し続けている。そして圧倒的な上演回数は多くの名優による様々な演出方法・型が生まれ、現在に至る。
 実際、「仮名手本忠臣蔵」はおもしろい。構成が緻密であり、無駄がなく、登場人物の造形がしっかりしている。筋書きに荒唐無稽な処が少ないので飽きが来ない。

『芸づくし忠臣蔵』(関容子 著 文藝春秋社 (1999))
 本書は、平成11年に発刊された。「仮名手本忠臣蔵」をめぐる歌舞伎役者の芸談を取材してまとめたものである。役者だけでなく義太夫語りや後見役、端役・ちょい役の大部屋役者たち、さらに道具方などの裏方たちの話も収録されている。それも一段目にあたる大序からエピローグになる十一段目まで場面ごとに細かい演出方法や舞台進行方法が載せられている。
 最初の「大序」では今は亡き中村歌右衛門に話を聞きに行く場面から始まる。長い物語の導入部にふさわしい、まさにこの『芸づくし忠臣蔵』の「大序」である。この立女形に「大序」のヒロインである、顔世御前の話を聞いて著者は「大成駒が話すと、顔世の妹の姉自慢のように聞こえる。」と云っている。まったくいかに著者が歌舞伎を愛し、成駒屋中村歌右衛門)を尊敬し、そして成駒屋から信頼されているか、がよくわかるのである。この著者であるからこそ本書ができあがった訳で、他の人ではこうはいかない。
 以下、最後のページまで著者の歌舞伎への愛が貫かれている。
 「大序」では、そもそもことの起こりが語られているが、「仮名手本忠臣蔵」では“邪恋”にその原因を求めている。現在の物語としての忠臣蔵では浅野内匠頭吉良上野介へ刃傷に及んだその原因は、賄賂が少ないことによるいじめにあった、ということにしているのが最もポピュラーであるが、歌舞伎では高師直吉良上野介)が馳走役である塩冶判官(浅野内匠頭)の奥方である顔世御前(阿久利)に懸想してしまうことが、ことの発端なのである。このようにわかりやすい原因ではあるが、しかし実を云えばこの大序にはひとつのトリックが仕組まれている。それは塩冶判官と同役である桃井若狭之助(伊達左京亮)は直情径行な性格であり、金と女と権力が大好きな高師直とことあるごとに衝突している。この「大序」においても桃井若狭之助が高師直と言い争い、それを温厚な塩冶判官が取りなす、ということを繰り返す。つまり観客は高師直に対して刃傷沙汰に及ぶのは若狭之助の方であると、てっきり思いこんでしまう訳である。それは次の二段目でも受け継がれ、この場で若狭之助は家老の加古川本蔵に、高師直を討つ覚悟を語る。ところがどっこい、三段目で実際に刀を抜いて高師直に斬りかかったのは、塩冶判官であったわけだ。このどんでん返しはこの芝居の最も良くできた部分のひとつであろう。
 芸談・裏話もこの部分をよく伝えている。芝居は役者がしっかり思い入れて演じなければ観客は感じられない。そのとおりでこの「大序」(発端)、「二段目」(決意)、「三段目」(急展開)と本書、『芸づくし忠臣蔵』ではまさに芝居のおもしろさ、見所を的確に伝えている。
 忠臣蔵の主人公たる大星由良之助(大石内蔵助)が登場するのは、ようやく四段目になってからである。この大星由良之助という人物は器が大きく、品格も備わり、冷静に判断し、まことに大人の男の手本になるような人物である。歌舞伎で一座の立役者が演じる人物としては第一級の人物であり、この由良之助の形を歴代の立役者たちが造り上げ、そしてそれが近代の映画、演劇で演じられる大石内蔵助という人物に投影され、今の歌舞伎にまたブーメランのように戻ってきてさらに洗練された大星由良之助像というものが練られてきている、と云えるであろう。本書でもこの四段目の由良之助の演出について最も多くの頁を費やしている。
 「仮名手本忠臣蔵」は、この後、浄瑠璃の「道行」を挟んで、五段目・六段目と勘平、おかるの悲劇を扱う。この錯誤による悲劇は、演出にはそれなりの高度な計算がなされていて、観客にはわからないようなたくさんの決まりが存在する。本書を読んでそれを確認する楽しさは、芝居好きには格別であろう。
 七段目に再び由良之助が登場する。この場はいわゆる、敵を欺き遊興にふけるお大尽の由良之助の場面である。
 八段目・九段目は、最近の歌舞伎座ではあまり上演されることも少なくなってしまったが、大星家と若狭之助の家老である加古川家の物語であり、他の幕にひけを取らないばかりか、この場がもっとも素晴らしいという人もいるくらい、完成度の高い場面である。
 十段目は、現在はほとんど観ることができない場面である。この場面は昔を良く知っている古老たちが駄作、と口を揃えていう場面であるので、本書でもほとんど触れていない。しかし芝居は上演されてそれを観なければ観客は何も判断できないのであるから、是非とも観てみたいと思う。
 最後の十一段目は、討ち入りの場面であるが、現在この場は単に剣劇の場面になってしまっている。忠臣蔵だから討ち入りがないと、という意見に従い、この場を出しました、というまったく趣というか情緒のない最終場面であり、「足取りの速い、それだけコクのない」場面になっている、と著者は云うがまったくその通りだと思う。

 「仮名手本忠臣蔵」では三人の侍が劇中に腹を切る。そして三組の愛の物語でもある。主な登場人物は最終的にすべて死んでしまう。残るのは女性だけだ。侍の世界を象徴するような物語である。

 著者の関容子さんは役者をはじめとした歌舞伎の関係者から信頼されている。それが本書を素晴らしい良書にしている核心の理由であろう。

芸づくし忠臣蔵

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