『それでも三月は、また』

第31回 東日本大震災関連(その4)・・・・・作家たちのアンソロジー

 震災後、ことばの表現者たちはこの世界をどうみたのか?
 今回ご紹介する本は、3.11後に彼ら作家たちが何を感じているのか、をそれぞれの作品に表現したものを集めた本である。いわゆる“アンソロジー”というものだ。

 『それでも三月は、また』(2012.02.24 第1刷)(講談社
著者・・・谷川俊太郎多和田葉子重松清小川洋子川上弘美川上未映子いしいしんじ、J.D.マクラッチー、池澤夏樹角田光代古川日出男明川哲也バリー・ユアグロー佐伯一麦阿部和重村上龍、デイヴィド・ピース

 日本、アメリカ、イギリス、南アフリカの作家が、3.11後に自作を持ち寄って1冊の本にした、という雰囲気を版元は伝えたかったのだろう。本書には“はしがき”も“あとがき”もないのだ。本書の特徴を知りたければ、表紙と帯を見るしかない。
 表紙に上記17名の執筆者名がずらりと並んでいる。そういう形は単行本ではあまり見かけない。そもそも雑誌の体裁を単行本にしてしまった、という処か。つまりは徹底的に“アンソロジー”(=詞華集)を標榜している。“アンソロジー”に徹しよう、という姿勢だ。
 また、本書は日米英の同時刊行だという。英語名は『March Was Made of Yarn』という。
 帯にはこうある。「作家17人が描く、3.11とそれ以降の世界!」。
 3.11を経験して魂を揺さぶられた作家たちが、何を感じたのか?何を思ったのか?それをどう紡ぐのか?(英文タイトルにある“Yarn”とは「紡ぎ糸」という意味がある)
 巻頭言のような立場にある、谷川俊太郎氏の詩から始まる。
 「何もかも失って  言葉まで失ったが  言葉は壊れなかった  流されなかった  ひとりひとりの心の底で  ・・・・・・」と、始まる。
 この谷川俊太郎氏の『言葉』という詩が最初にありき。たぶんそれが最も大切なことなのだ。
 大胆な仮説を立てるならば、本書の編集者はこの『言葉』を読んで、本書を企画したのではなかろうか。この作品は3.11の災厄で言葉まで失ったが、心の底にまだ残っていて、それが甦り、新しい意味へと変化していく。ということを詠んだ詩である。
 作家たちは3.11で何を感じて、それをどう文章化したのか。それをアンソロジーとして揃えた本なのだ。我々読者は、谷川俊太郎氏の『言葉』が示唆しているように、収載された各作品が災厄の前とは違うことばで語られ、あるいは同じことばでも新しい意味で語られるのを読み解くのである。
 もし、新しいことばを紡ぎ、新しい意味で甦らせることができたのならば、本書は実に画期的な本になっているはずだ。
 しかしながら、残念なことにその試みは成功したとは云えない。確かに一度瓦礫と一緒に埋もれてしまったことばは発掘された。いま思えばあの時、我々は等しくことばを暫くの間失っていた。それを発掘したのは谷川俊太郎氏をはじめ、本書に参加した作家たちであり、他にも大勢の表現者たちである。一時的に失語症に陥った我々に言葉を取り戻してくれた功績は大きい。この谷川氏の『言葉』という詩を最初に読んだ時の覚醒感と高揚感を愚生は覚えている(本作の初出は、朝日新聞2011.05.02 夕刊である)。
 だがしかし、発掘され甦ったことばはいつもの、従来の、前と変わらないことばであった。3.11の災厄でことばは新しくはならなかったのだ。
 そこまで期待するのが間違えているかもしれない。しかし本書の表紙と帯を見て、そして谷川氏の『言葉』を読んで、愚生は新しいことばが再生されたのかもしれないと大いに期待したのだった。
 既視感。誤解を恐れずに云えば、そういうことなのだ。ことばは、たとえ3.11を経験していようが、一朝一夕には変わらない、ということがよくわかった。それは9.11を経験しようが、8.15を経験しようが同じなのだ。
 3.11の前と後で言霊のあり方までは違ってしまわなかった。各作家たちが背負っている執筆の神様たちに変更はなかった。ということだ。3月10日までの作家の書く文章の骨格と3月11日以後、彼らが書くものの形に違いはないのだ。作家としての彼(彼女)は、3.11後もそのまま彼(彼女)なのである。そういう意味で作家たちもわれわれのような一般人と変わりない。
 われわれは往々にして、人生観の変更を余儀なくされるようなあれだけの大災害を目の当たりにすれば、おのずと表現も以前のままでいられる訳がない、と思いがちである。だがしかし、今の処、それについての変更はない。3.11で大きく魂は揺さぶれられたが、ものの考え方まで変えることはできなかった。生理学的な人間、きのうもきょうもあすも食べて寝て排泄して生きていく、この人間という存在は精神的な側面でもきのうきょうあすと何が起ころうと連続している。
 そういう風な既存のことばでなら、作家は縦横無尽に筆を尽くし活躍している。
 川上弘美氏が書いた『神様 2011』の最後にこうある。「・・・静かな怒りが、あの原発事故以来、去りません。むしろこの怒りは、最終的には自分自身に向かってくる怒りです。今の日本をつくってきたのは、ほかならぬ自分でもあるのですから。・・・」とある。この認識は愚生にとって100%共有でき、すべて首肯できる一文だった。
 また村上龍氏の『ユーカリの小さな葉』の中に、「・・・現在の政府を選び、結果的に電力会社の経営方針を了解したのは、わたしたち自身なのだ。わたしは、九州に両親がいるが、放射能を避けて西に逃げようとは思わない。家族や友人たちを残して関東をはなれたくない。わたしに関して言えば、放射能から身を守ることだけが人生の優先事項ではない。・・・」という一文も愚生にとって共有できる認識である。
 これらの文章は現状を自分なりに分析して認識し、それをいままでの言辞で表現したものであって、3.11以降新たなことばで紡いだものではない。
 何度も云うが、あの大惨事を前にして魂を大きく揺さぶられはしたが、それが新しいことばに繋がっていない。ものがたりはいまだ完成していない。ことばは未完成なのだ。たぶん、その行為は未来永劫、ずっと続く。探し当てることができるかどうかはわからないが、長い長い年月がその回答を出すのだと思う。
 本書は、読者に本を手に取らせる、という意味で編集者の成功であり、そして読者ひとりひとりをして、ことばについて考えさせしめた、ということでもまた編集者の成功なのである。