海が呑む −3.11東日本大震災までの日本の津波の記録

 日本における過去の津波の記録を丹念に掘り起こし、それを報告している本に出会った。もともとは以前に発表しているものを今回、一冊にまとめて出版したわけだ。したがって、3.11以前の津波の記録に本の内容の大部分を割いている。“記録”と云っても、役所の報告書のようなものではない。筆者が津波被害に遭った現場に行き、土地の古老から聞き取り、土地を歩いて見たことを叙述している。いわば紀行文である。そして最後に、最も新しい津波である3.11についてケセン語で有名な山浦先生に一文を寄稿してもらった、というスタイルになっている。

 『海が呑む −3.11東日本大震災までの日本の津波の記録』
(花輪莞爾 著)(山浦玄嗣 特別寄稿)(晶文社)(2011.12.5)

 「海が呑む」という題名で80年代に三回に分けて、季刊『現代文学』に発表したもの。
 (?)の舞台は岩手県三陸町綾里と大船渡町。昭和8年(1933)の昭和三陸地震について書かれている。それと、地震は発生していないが、津波だけが押し寄せた「チリ地震」(昭和35年(1960))の記録も含まれる。
 そして(?)は、昭和58年(1983)の「日本海中部地震」。舞台は日本海側になる。
 さらに(?)が、昭和19年(1944)の「東南海地震」と昭和21年(1946)の「南海地震」であり、舞台はそれぞれ、三重県尾鷲市和歌山県有田郡広川町と湯浅町
 奥尻島津波は、4章というべき「奥尻島悲歌」にある。平成5年(1993)の北海道南西沖地震である。

 (?)の舞台となった、三陸海岸では、昭和35年のチリ地震を体験した大人は、おそらく昭和8年の昭和三陸地震も体験している。さらに云えば、チリ地震を体験した老人は、明治29年(1896)の明治三陸地震も体験している。一生のうちに三度も津波被害に遭った人がいる。それが三陸海岸に住み続けるということなのだ。
 このことは、今回の3.11にも云える。昭和三陸地震(1933)、チリ地震(1960)と今回(2011)と三回の地震津波を経験した古老たちが大勢いるに違いない。
 本書も津波の恐怖と被害と隣合わせに生きる、ということを繰り返し強調している。
 津波は他の災害と違い、助かるか死んでしまうかの二者択一なのだ。怪我をする、という選択肢はほとんどない。その恐怖はどんなものだろう。背筋が冷たくなる。あの震災から2年近く経ったいま、あらためて、まじまじとそういう感情が湧いてくるのだ。
 何度も同じように津波に襲われても、また同じように沿岸部に建物を建て、生活する。それは海と山に囲まれたこの地方の宿命なのだろうが、それにしても一生のうちに三度も大災害に見舞われるのである・・・・・。
 それはつまり、災害が起こらない時、平時には海と山の恵みによって豊かな生活が保証された場所であることの証左であろう。災害さえ起こらなければ、津波さえ来なければ、いい土地なのだ。
 生き残った人は災害の後、きっとこう思うのだ。“いま災害が来たばかりだから、次に来るのはずっと後になってからだ。”と。人々は生きていることにほっと胸を撫で下ろしながら希望的観測に想いを馳せ、生存が当たり前の予定調和に酔いしれるのであった。
 今回の震災でも、高台移転か、嵩上げかで都市計画が揉めているのを尻目に、災害前とまったく同じ場所に家を建て始めてしまう人がいる。自己責任という責任を負うが、その人は何十年後の災害の時に、果たしてその自己責任を果たし続けられるのだろうか。
 (?)の日本海側の津波は、途方もない引き波で始まった。そしてこの地方もまた、この地震津波が始めての災害ではないことが文献によって明らかになっている。その頻度は、反対側の三陸海岸ほどではないにしろ、数百年単位で地震津波が起こる場所である。
 (?)は、まさに今の視点で考えれば他の時代、他の場所で起こった他人事の災害ではないのだ。ご存知のように東海、東南海、南海の3つの地震は極めて早い時に起こるであろう大地震なのである。三陸地震の次にはこの地域の地震津波に最大の注意が払われてしかるべきなのだ。紀伊半島の沿岸部は三陸海岸と同じように入り組んだリアス式海岸の風景を現出している。同じように海と山の両方の幸に恵まれとても住みやすい土地だ。そして被害の予想も三陸海岸と同じように甚大なものになるであろう。この地方での一番直近の地震は昭和19年と昭和21年にあった。戦争中と戦後の混乱期である。昭和19年の地震は軍部によって情報が統制され、被害状況も国民にはあまり知らされていなかった。また昭和21年の地震は、敗戦直後ということで、日本全体が最も困難な時期であり、正直に云えば、国民は“それどころではない”という感情があったに違いない。ともに不幸な展開を見せた災害であった。注目すべきは、このふたつの地震は2年の間に起こっていることであろう。完全に連動していると考えて間違いない。備えるべきは、大地震の連鎖なのだ。
 最後になったが、山浦玄嗣先生の寄稿文にふれる。
 とにかく文章がうまい。ご自身が津波に遭われ、その体験記である。この寄稿文を読めば、文筆家が実際に地震津波の被害を受けた、という事実が我々にとって不幸中の幸いであったと思わざるを得ない。追体験ができる。
 こんなふうなのだ。「・・・道路に濁流が押し寄せ、わが家の周りで暴れ馬のようにはね狂っている。車が何台も何台も、どすどすとぶつかりながら流れる。・・・丸太、材木、戸棚、あらゆる残骸がノンノンと流れ上がる。・・・」。オノマトペの使い方が絶妙だ。震災直前に大船渡の地元印刷所の倉庫が津波の被害に遭った。そこに山浦氏の著書である『ケセン語新約聖書』が3,000部ほど保管してあったが、奇跡的に無傷で瓦礫の中から出てきた。そして津波の洗礼を受けた聖書として海外からも注文が入り、大いに売れているというエピソードを最後に付け加えておく。