『あのとき、大川小学校で何が起きたのか』

 どうしても気になるルポルタージュがあった。いままで意識的に読むことを避けていた。それは、まさに“悲劇”というに相応しすぎる出来事だったから。そこから目を逸らしていた。
 でも、初夏のある日、執筆子が実際に被災地のその現場に立ってみたとき、読んでみようと思った本をご紹介する。

 『あのとき、大川小学校で何が起きたのか』
  (池上正樹 加藤順子 著)(青志社)(2012.11.11初版)

 東日本大震災では、学校現場では、おおむね子どもたちを無事に保護・避難させることができたという。むろん学校が避難所になっていて、その学校が学校としての役割を一旦終了し、避難所としての役割になってから、被害を受けた学校はたくさんある。しかし、避難所ではなく学校の機能のまま被災し、多数の死者行方不明者を出してしまったのは、この大川小学校だけ。子供たちの犠牲は74名。全校児童が108名の学校。実に7割の児童が犠牲になってしまった。教職員も10名が津波に呑まれ命を失っている。
 なぜ、これほどまでの犠牲者が出たのか?
 地震発生から津波到来までの間、何をしていたのか?
 大津波警報が出ていたのに、なぜ高台に移動しなかったのか?
 命を落とさなかった子どもたちは、どんな行動を取って助かったのか?

 疑問はいくつも湧いてくる。わが子を失った子どもたちのご遺族の身になって考える。その苦しみ。それはいかほどのものなのだろう。
本当に苦しい。
・・・・・・・・・
比較することは禁物だが、どうしても確認したいことがある。
ほかの学校では、みなうまく避難したのに、なぜ大川小学校だけがこんなに犠牲者が多いのか?
 ここに遺族の想いがあり、また教育現場に身を置く人たちの疑問であろう。本書はそれを思いつく限り、細かく検討している。
第一に、地震発生後から津波襲来まで51分あった。その間、大川小学校では子どもたちをずっと校庭で待機させていたらしい。
校庭で何をしていたのか?高台に逃れることに対して何をためらっていたのか?
第二に、すべてが終わった後、なぜこれほどまでに大川小学校の子どもたちが犠牲になったのか、なぜ高台に避難せず校庭に留まっていたのか、という説明、その合理的な説明が誰からもしっかりとした方法、納得のいく形でなされていない。
当初石巻市教委は、倒木が多く危険だから裏山には避難できなかった、と見え透いた嘘の説明をした。実際に裏山の林は一本の樹木も倒れていないのだ。おそらく、この時から遺族と教委との溝ができたのではないか、と思われる。
第三に、その場にいて唯一生き残った教師の存在。
彼は、一度遺族の前に姿をみせ、謝罪したのち二度とその姿を公に現していない。この生存した教師は小学校の裏山を登り、間一髪で津波から助かっている。彼にもっと話をしてほしい、という遺族の願いは尤もなことだ。
第四に、その日、3月11日。校長は外出していて学校を留守にしていた。それはそれで仕方ないことではあるが、校長が表に出て説明することはなかった。校長は自身で一度も遺族の前に立っていない。後日個別取材で、この校長は「記憶があいまいになった」と云って証言を拒んだ。
地方都市のさらにその奥の土地でさまざまな人間関係が輻輳している。地元に住んでいる遺族や関係者が、その中で真相を究明しようとおもったら、知っている誰かを傷つけてしまうことになる。
本書の意義を端的に云えば、遺族の代わりに土地と関係のない第三者が、調査してその結果を記録した、ということであろう。地元の関係者では調べることができないことも、東京からきたジャーナリストが調べれば調べられることがある、ということだ。当事者にならずに冷静な第三者の目が貫かれている。
組織は何かを隠している。誰の目にもおおかた、何を隠しているかはわかる。しかしそれは、絶対に出てこない。それならば関係のない人に調査してもらう。それでも足りなかったら残念だが訴訟を起こすしかない。
そして、外部のジャーナリストでも問題は解決できなかった。彼ら遺族は結局、残念だが最終の方法=訴訟を起こすことを選んだ。本書は真相を解明できなかった、無念の書でもある。本書にはそこに至る経緯が詳しく書かれている。
訴訟での経緯も含めて、この事件の最終的な結論をぜひ知りたい。

あのとき、大川小学校で何が起きたのか

あのとき、大川小学校で何が起きたのか