『シャーロック・ホームズの蒐集』

 作品が発表されてから100年以上経つのに未だにその人気は衰えず、映画での上映もテレビでの放映もたくさんある。現在もNHKが人形劇を放送している。
 シャーロック・ホームズ。偉大なる探偵。架空の人物ながら、実際に存在していたかのようにかれは存在している。ロンドンやエジンバラ(作者のコナン・ドイルの生誕地)には銅像が立ち、下宿していたベーカー街にはシャーロック・ホームズ博物館があり、シャーロック・ホームズホテルもある。
 コナン・ドイルの原作は長編4作。短編56作。併せて60作あるが、その後も別の作家たちが、シャーロック・ホームズの物語をたくさん発表している。それらの作品は時代も舞台も原作と同じでホームズとワトソンの主役はもちろん、ハドソン夫人やレストレード警部などのレギュラー陣もそのまま登場させており、さらにコナン・ドイルの文体も真似ているという。そのような作品を「バスティーシュ」というが、このたび日本でも本格的なシャーロック・ホームズパスティーシュが発行された。

シャーロック・ホームズの蒐集』(北原尚彦 著)(東京創元社)(2014)

シャーロック・ホームズの蒐集

シャーロック・ホームズの蒐集

 本書を読み始めて1ページ目から感じたことは、本書は日本語に翻訳されているコナン・ドイルの作品と文章のリズムが似ている、ということだ。なんと云えばいいのか、昔から親しんでいる新潮文庫の「シャーロック・ホームズ」を読んでいるような気分になった。まだ読んでいなかった原作本に出会った感じ。作者はかなり文体にも気を使っているのであろう。本書の「あとがき」は素の作者の文章であるが、こちらは当然ながら文章自体のリズムが違う。
 執筆子はシャーロック・ホームズのファンであるが、恥ずかしながらホームズのバスティーシュを読むのは今回がまったく初めてだった。読後感を一言で云えば、“楽しめた”ということだ。この一言に尽きる。おもしろいのである。

 聖典コナン・ドイルの原作のことをこのように云うらしい)で描かれているホームズやワトソンの性格がそのまま継承されているのはむろんだが、その聖典からもう一歩踏み込んで、特徴的な性格をすこし誇張させているので、とても興味深かった。誇張が過ぎてストーリーが脱線気味になる処もあるが、それくらいはご愛嬌であり余裕で許容の範囲内である。
 また、シャーロック・ホームズの事件は現代の我々のミステリーからすると、幼稚というか雑というか、頭脳明晰なホームズの頭の中だけで問題が解決してしまっていて、最後のネタ明かしではちょっとだけ強引さが残る印象を持ってしまうものが多い。そしてこのような強引さすらも本書は忠実に踏襲している。もはや、ホームズはミステリーとか推理小説とか、そういうジャンルに含まれる作品ではなく、“シャーロック・ホームズ”というひとつのジャンルが確立していると思われるのだ。

 本書には「○○○○○○の事件」という標題の短編が6作収められている。ひとつひとつの短編はそれぞれ以前読んだことがある聖典のなにかの作品からヒントを得て書かれているのは間違いがないし(それが実際に聖典のどの作品に当たるのかを云うのは野暮というものだろう)、それはなんだっけ?と再び聖典をあたるのも楽しい作業には違いない。
 これらの作品の最後に聖典の引用がそれぞれに入っている。最初の短編を読んでこの引用をみたとき、いったいなんだろう?と思ったが、すぐに疑問は解けた。聖典からこの作品の根拠になる部分を引用しているのだ。多くの聖典において、ある事件を語るとき、その前後に起きた他の事件について、こういう事件もあったし、こんなこともあった、でもこれから語る事件が最も奇妙で難しい事件だった。というふうな書き出しで始まる。そしてその時に列挙された他の事件の中のひとつが、本書に書かれた短編になっている。つまり、あくまでも本書は聖典の延長であり、聖典を踏まえて表現されているわけだ。このことが本格的なパスティーシュである、と云われる所以である。

 作者はこの世界では有名なホームズファンであり、本格的なホームズのパスティーシュとして、本作が初めてであるが、今後も書いていくと宣言しているようなので、これからがとても楽しみだ。
 聖典コナン・ドイルによって書かれたのは、むろんドイルと同時代の大英帝国であり、ロンドンであり、そういう意味では同時代小説であったが、今となっては完全に英国の時代小説といってもいい。その歴史も場所も違う処を舞台にしかも聖典に矛盾することなく書かなくてはならないのはとてもたいへんな作業であろう。それをしっかりものにして素晴らしい作品を完成させた作者に敬意を表したい。
 これからが本当に楽しみだ。