『未完。 仲代達矢』

 今の日本人男優の中で名実ともに巨大で圧倒的な存在感で人々の心の中にあるのは、やはり仲代達矢であろう。彼の俳優人生をみたとき、一筋縄で括ることができないことに気が付く。映画にも舞台にもそしてテレビにも出ている俳優がここにいる、という感じだ。さすがに80歳を超え、年間の出演数も少なくなっているが、60年代から21世紀まで50年以上、常に第一線で主役を張っている極めて息の長い役者だ。
 以前、小欄で仲代達矢の本を紹介したことがあるが(『仲代達矢が語る 日本映画黄金時代』2014年6月10日号)、今回紹介する本では、映画に限らず、舞台についてもテレビについても仲代達矢は語っている。さながら、彼の伝記のような本である。

『未完。 仲代達矢』(KADOKAWA)(2014)

未完。 仲代達矢

未完。 仲代達矢

 まず本書の第一の特徴を挙げるなら、本書には著者名がカバーや表紙に載っていない、ということであろう。仲代達矢の著作なのかどうかが、わからない。ようやく奥付をみて、別に執筆者がいる、ということが確認できる。長昭彦氏。長さんが仲代さんにインタビューをして、それを基に書いた、とあとがきに記載されている。そして本書は全編終始、仲代達矢本人が主語の一人称で表記されている。
 そして、題名の「未完。 仲代達矢」。仲代達矢は未だ完結せず。仲代達矢は未だ完成されず。仲代達矢は未だ完了していない。仲代達矢は今もダメを出され続けている。ということだ。
 簡潔なタイトルが本書の意図と主題を端的に云い表している。

 口絵写真が素晴らしい。現在の仲代達矢を写した写真であるが、どの写真もいい顔をしている。彼の生きてきた、その起伏に富んだ長い道のりをチョンボやズルなしに確実に歩いてきた、その道程を感じさせる顔をしている。実に彼の様子がよくわかるいい写真なのだ。この口絵の仲代達矢をみて、これから読む本文に対する期待が否応なく高まる。

 本書は本人語りの形式で仲代達矢の役者人生を振り返っている。
 貧乏だった子供の頃。役者を志したきっかけ。初舞台。初映画。そして舞台と映画の二足のわらじ。共演した役者たちのこと。
 黒澤明監督が「七人の侍」の撮影時に仲代達矢に対して歩き方だけでダメ出しをして、撮影が一日止まった話は、マニアの間では有名な話だが、それを本人から聞くのはまた格別なことである。21歳の仲代達矢が受けた屈辱感は並大抵ではないだろう。自分のことだけで精一杯だったであろうから、とてもひどい目に遭ったわけだ。その時の屈辱感が忘れられず、6年後に「用心棒」のオファーがあった時は断ったそうだ。黒澤明監督と仲代達矢のコンビは同じく黒澤と三船敏郎とのコンビに匹敵する。しかし最初はそうではなかった、という処がとてもおもしろい。

 さまざまな人たちとの出会いがあり、対立がある。三船との対立もほんのすこしではあるが、触れている。恩師の千田是也との決別。そして本書の後半は、次々と続く仲間たちの死に対して悲嘆にくれる仲代の姿がある。長生きの代償は孤独なのか。
 役者という虚業の中で生きることについて、仲代達矢の分析にはとても共感した。実業は成果が形に表れるが、虚業はつかみどころがない幻のようなものだ。しかしその幻が生きる力を与え、感動をつくり、生きていく原動力にもなる。まったくそのとおりだと思う。我々、観客は舞台や映像を観て、自分自身の経験値を上げ、そしてそれを糧にしてあす以降を生き抜こうとしている。虚業が実業を補填している。

 執筆子はどうしてお芝居が好きなの?とよく人に聞かれる。それについての回答はできていなかった。自分でもよくわからなかった。しかし、本書を読んで、仲代達矢のように虚業に生きる人たちの声を聞き、ようやくことばにできるような気がする。感動して勇気を得るために芝居を観るし、映画も観るし、寄席にも行くし、コンサートにも足を運ぶし、そして本も読む。それら作品から、私たちは勇気をいただき、あすもまた頑張ってやろう、という気になる。すべては、“生きる”という行為のためなのだ。

 仲代達矢宮崎恭子のおしどり夫婦ぶりはつとに有名だった。いつだったかテレビでふたりにインタビューしている場面を見ていたが、次に生まれ変わって結婚するとしても、またこの人と結婚します、とふたりとも異口同音に云っていることを記憶としてよく覚えている。その妻である宮崎恭子は平成8年(1996)に亡くなった。享年65歳。この時のことは本書でも避けて通れない。死の直前に仲代達矢と共同で主宰している「無名塾」の塾生に、彼女はこう云う。
 「・・・・・あまりにも日本の社会は経済中心で動いていて、役者までそうなっちゃっているけど、自分たちはそういう管理社会の全く外にある、違う野生の世界にいる人間なんだと認識してほしい。芸術家であることで、何も世の中に貢献していないような存在でも、大金持ちの前に行っても、社長の前に行っても、全く引け目を感じないでいられる。自分が価値があると思っている場を持っているということは素晴らしい。貧しかろうと何であろうと、価値観だ。芸術は面白い。人間は面白い。・・・・・」
 なんだか、読んでいてとても感動してしまった。

 本書の最後は、仲代達矢が妻の死のあとの無気力な状態から、どうやって再び舞台に立ったか。そしてさらに老熟した演技を身につけ、名優の名をほしいままにしていく様子が綴られている。
 さまざまな体験をして今日の仲代達矢があるのだ。その体験が仲代達矢をして凄みのある役者にさせているのだ。