『ノボさん 小説 正岡子規と夏目漱石』

 近代の日本。明治維新を迎え、近代国家になろうとしている日本。近代化の大きな渦の中には、ことばとしての日本語、それに文学も含まれている。文語から口語へ。そして自我の目覚め。自分は何ものであるか、ということを自分で考え、それを言葉で表現する。それを明治の人々は苦しみながら行ってきた。時にはひとりで、そしてある時には複数で。
 ふたりの男の友情が、その日本語と文学の推進に何役も買っている。そのことを小説にしている本がある。

『ノボさん 小説 正岡子規夏目漱石』(伊集院静 著)(講談社)(2013)

 「ノボさん」とは、正岡子規のニックネーム。幼名が升(のぼる)なので「ノボさん」。
 本書は正岡子規の半生を描く伝記小説であり、夏目漱石を主要登場人物にすることによって、近代日本文学の草創期を経て成熟期に向かうような部分を重層的立体的に描いている
 正岡子規夏目漱石は同じ歳。彼らふたりが近代日本に果たした役割はどれほど大きいのか。ふたりの友情がどれだけ、いまこうして我々が使用している日本語の発展に貢献したか。
 正岡子規が東京で夏目漱石と出会い、そしてどのようにふたりの友情が育っていったか、さらに正岡子規の死によってどう終わったか。本書はそれを小説仕立てで紹介している。

 正岡子規とその弟子たちは膨大な記録を残しているので、その記録をもとに小説家は場面場面を再現する。
 子規が俳句と出会いそしてどのようにそれを発展させたか、また短歌をどのように近代の短歌へと昇華させたか。

 むろん、本書は小説であり、著者の伊集院静の創作活動であり、フィクションなのだが、正岡子規という明治時代を生きたひとりの人間の一生を、事実どおりに追っているのは間違いない。資料を参考に子規の思考とか内面を伊集院は再現した。
 また、子規の発想とか思考方法とか、そういう部分が丁寧に描かれているが、これも著者の想像の産物であろう。むろん資料を参考にしているし、小説に出てくる登場人物も皆、渉猟した資料に載っている人たちであろう。その資料を伊集院静流に調理したものが本書になっている。
 それが丁寧に描かれている場面がある。有名な「柿食へば 鐘が鳴るなり 法隆寺」の句ができていく様は圧巻の描写であろう。

 そして子規の最期。辞世の句になった、へちまの3句を披露する場面。読者諸兄はこの場面をどんな風に読むのだろうか。
 誰でも受け入れる子規だが、自分から積極的に出向いて人に会いに行く人ではなかった。しかし唯一子規が自ら出向いて友人になった人が夏目漱石である。本書では夏目漱石として登場はしていない。本名の夏目金之助として登場している。「吾輩は猫である」は子規存命中にはまったく萌芽もない。夏目漱石はまだ教師であって作家ではない。だから金之助なのだ。

 この漱石の存在なくして、本書はありえない。子規と漱石の性格の対比が面白い。陽の子規。陰の漱石。動の子規。静の漱石。しかしながら、ふとんから起き上がれないような悲惨な病気に罹り、志半ばで死ななくてはならなかったのは、子規の方だった。
 ときおり、漱石の独白のかたちで子規の性格分析がある。漱石の目を通して子規をみている。しかしその漱石もそしてみられている子規も、本書では筆者の創造物なのだ。筆者は自分が漱石になって子規を観察している、と考えるべきか。

 子規はとても魅力的な人物だったのだろう。そうでなければ、病気になってからもあんなにたくさんの人が子規庵を訪ねるはずがない。気むずかしく激しい人であったなら、また別の様相を呈していたに違いない。子規のその愛される性格があったからこそ、短歌も俳句も現在まで脈々と続く日本独自の文芸になりえた。というのは暴論だろうか。子規の才能と熱意が短歌と俳句に革命的な再生をもたらし、子規の性格がそれらの普及と発展をもたらした。もっと乱暴なことを云えば、夏目漱石も子規と出逢わなければ、小説家になっていないかもしれない。本書はそこまで踏み込んでいないが、子規との対話(直接の会話や書簡)によって漱石は文学に目覚めたのかもしれない。それはあながち間違ってはいないような気がする。

 本書は小説なので参考文献一覧表は存在しない。しかし、本文中に『墨汁一滴』『仰臥漫録』『病牀六尺』という子規の著作物が載っている。また、記載はないが、『漱石・子規往復書簡集』という書籍が発行されている。これも本書の参考文献に間違いない。この本にはその名の通り、子規と漱石がやりとりした手紙がそのまま登載されている。子規も漱石も相手からの手紙を保存してあったし、それをしっかりそれぞれの遺族が守っていたわけだ。子規と漱石がいなくなった後の東京は震災と空襲という二大惨禍を経験しているにもかかわらず。
 現在を生きる我々は、この幸運を感謝しなければならない。子規と漱石の往復書簡を読める幸せなのだ。おそらく本書の筆者もその思いは同じであろう。