『知らなかった、ぼくらの戦争』

 戦後72年。戦争を経験した人々はどんどん減っている。直接の語り部が消滅しかけている。それならば、今後は若い人がその代わりを務めなければならない。戦争体験者から直接聞くことは不可能でも、それを直接聞いた人から話を聞くことは今後も可能だ。むろんその場合、聞いた人の考えや感情が入り込む。しかしそれもよし、としなければならない。年月は容赦なく過ぎていき、すべての出来事が歴史の遠い遠い彼方に去ってしまう。戦争とか災害とかそういうことは、忘れてしまってはいけないのだ。我々は常に戦争の惨状、災害の惨禍を語り継ぎ、教訓にしていかなければいけない。
 そういう意味で、今回取り上げる書物はとても興味深いものである。なにしろ戦争体験者から聞いているのは、米国人なのだから。聞き役が勝利者の米国人という処がとてもおもしろい。

『知らなかった、ぼくらの戦争』(アーサー・ビナード 編著)(小学館
(2017年4月2日初版発行)

知らなかった、ぼくらの戦争

知らなかった、ぼくらの戦争

 本書は、ラジオの文化放送の番組「アーサー・ビナード『探してます』」のうち、23名の戦争体験談を採録し、加筆・修正をして再構成したものであり、聞き手はアーサー・ビナード氏。
 アーサー・ビナード氏は、1967年にミシガン州で生まれた。大学の時に日本語と出会い、1990年23歳のときに単身、来日。以来27年間、日本に住み続け、日本語で本も書いている詩人だ。
 本書には23名の“体験者”=“語り部”が登場する。全員、ビナード氏がインタビューをしている。
 軍国少女、真珠湾攻撃時の飛行士、日系米国人、北方領土在住者、兵器工場勤労動員、BC級戦犯、戦艦武蔵の生き残り、硫黄島生き残り、海軍特別少年兵、満州在住者、沖縄出身者、疎開せずに東京にいた噺家、広島生存者、長崎生存者、空襲の語り部、GHQ在籍者・・・・・。
登場するすべての人たちが、まさに輝かしい経歴を持っている。そしてこの人たちを選んだビナード氏や関係者に敬意を表する。インタビューはおよそ2年前の2015年に行われたものであるが、2017年9月現在、この中でもかなりの方が鬼籍に入られた。
 ビナード氏の揺るぎない視点は、真珠湾攻撃が米国の策略で実行された、というものだ。米国が連合国として第二次世界大戦に参戦するためには、米国市民が犠牲となる何かしらの事件がなくてはならないと、米国政府は考えていた。そしてそのために対日交渉を途中で打ち切り、日本が米国へ攻撃を仕掛けるように仕向け、実際にその試みは成功した、という視点。ビナード氏はかたくこの考えを信じている。そしてその意見を補完するように真珠湾攻撃に参加した元戦闘機乗りにインタビューをして次の台詞を引き出した。曰く「空母は何隻いたのか?」
 日本は米国太平洋艦隊の本拠地である真珠湾への奇襲攻撃を食わらしたが、そこには戦艦が数隻しか停泊しておらず、航空母艦は一隻もなかった。もし本当に不意打ちの奇襲攻撃だったなら、空母は必ず停泊していたはずだ、という。米国政府は日本の攻撃を事前に察知していて、空母をすべて出港させていた。偽装の奇襲において、さすがに空母を犠牲にするわけにはいかない、ということだ。しかし、それは本当にそうなのか?米国が参戦するために自国民を何千人も犠牲にするのか。自国民をそんなに簡単に裏切ることができるのだろうか。
 確かに、以後日本憎しの世論が形成され、米国民は一丸となって戦争への道を歩み、圧倒的な物量で枢軸国に圧勝した。広島長崎も一般市民を標的にした度重なる都市への空襲も卑怯な日本人に鉄槌を下す、という乱暴な論法で正当化ししているし、米国に住み、米国市民権を持っている日系人を収容所に入れる蛮行、さらに占領した日本に対する態度など、もしかしたらすべてが米国政府のシナリオどおりなのかもしれない。しかしそれではあまりにも悲しすぎるし、第一に歴史を一面しか見ていないような気がするのである。
 本書はビナード氏が生存者にインタビューをして、そしてそれぞれのインタビュー掲載後に彼の考えを述べているものであるが、この米国政府陰謀説をバックボーンにして解釈しているのに、やっぱいすこし違和感を覚えるのだ。
 そうは云いつつも、さすがにビナード氏は詩人だけあって、ことばに対する鋭さが違うのである。彼らの吐いた何気ないことばに反応し、それを手がかりに想像力を働かせて戦争を表現しているのはさすがなのだ。一例を挙げる。
 BC級戦犯としてスガモプリズンに収容されていた元兵士にインタビューをした時、ビナード氏は彼から「君は「狭間」ということばを知っているか?」と聞かれた。そしてビナード氏は次のように応えた。
「国家がいっていることとやっていることがかみ合わない中で、自分が国を愛してやったことが、犯罪として裁かれる。とんでもない話だと思います。責任者の国家が責任回避に明け暮れて、飯田さん(元兵士)は個人として責任を背負わされた。そしてそれを果たしつづけてきたんですね。」・・・・・この部分で執筆子のわたしは泣いた。

 日本では「戦後」ということばは、1945年以降を指すことばであるが、米国では「postwar」は必ずしも第二次世界大戦が終わってから後のことを指すわけではない。なぜかと云えば、その後も米国は世界中のあちこちで戦争をしているからだ。ビナード氏は日本に来てはじめて日本語の「戦後」に遭遇した。米国は「戦後のない国」だから。そしてビナード氏は、この戦争体験の話がその枠に収まらず、戦後をつくることにつながっていることに気づき、そして実は彼自身の生き方にも多大な影響を与えていると、あとがきで正直に吐露している。
 翻って、我が身に置き換える。戦争を知っている身内がどんどんいなくなっているが、それでも若い時に祖母や伯父伯母、そして両親からさまざまな戦争の話を聞いてきた。主に東京での戦争体験であるが、父の経験した3月10日の東京大空襲の体験記は今思い出しても鳥肌が立つ。父が生き残ってくれたお蔭でこの身がいまここに存在するわけで、社会の中に居場所を得て、こうして人々に囲まれて生きているのである。そういうことに思い至ったとき、これが自分の戦後なのか、と思わざるを得なかった。