『複眼の映像−私と黒澤明−』(橋本忍) ほか

第5回 黒澤明生誕100年記念(前編)−黒澤組の中で

 今年は、日本が世界に誇る偉大な映画監督である、黒澤明氏の生誕100年の年であり、黒澤監督作品の記念上演や黒澤監督関連本の出版が相次いでいる。
 今月と来月の二回に分けて、黒澤明に関する書籍を逍遙してみたい。いわゆる“黒澤明関連本”は星の数ほど出版されているので、どの本を俎上に載せるか大いに迷った。今月は、内部の視点で描かれたもの。来月は外部からの視点で書かれたもの。という区分けにした。すなわち、今月は黒澤監督と一緒に仕事をした人たちの著作を選んだ。そして来月は映画ファンや評論家の書籍を載せることにする。
 映画の製作現場では、一緒にある作品を作る人たちの集団を監督の名を冠して“○○組”と称している。小津安二郎監督のチームなら、“小津組”であり、山田洋次監督のチームは“山田組”となる。したがって、黒澤明監督の制作隊は“黒澤組”と呼ばれていた。それほど映画の撮影では監督の考えが重要なのである。映画監督はチームの司令官であり、絶対権力者である。“一将功成って万骨枯る”と蔭口を叩かれるが、もしその作品が失敗であったらすべての責任は監督が負う訳であるから、責任を伴った指揮官である、といえるだろう。製作チーム名に監督の名を冠するのもむべ成るかな。である。
 今月、小欄で紹介するのは、そんな“黒澤組”の人々の著作から以下の書籍を選んだ。

『天気待ち−監督・黒澤明とともに−』(野上照代 著 文藝春秋社(2001))
『評伝 黒澤明』(堀川弘通 著 毎日新聞社(2000))
『複眼の映像−私と黒澤明−』(橋本忍 著 文藝春秋社(2006))

 まずは、『天気待ち−監督・黒澤明とともに−』(野上照代 著 文藝春秋社(2001))から。
 野上照代は、昭和25年の『羅生門』以来、最後の作品となった『まあだだよ』(平成5年)までのほとんどの作品で黒澤監督の下、スクリプター(記録係)として作品制作に参加している。記録係とはどんな仕事をする係なのかは、本書に詳しく書かれているので、ここでは記述しないが、撮影中、監督の脇が定位置なので、最も監督の言葉を聞いている人であり、監督の感情がひりひりと伝わってくるポジションの人である。タイトルの“天気待ち”というのは、野外の撮影でその時に適した天気になるのを待っていることを指していることばで、晴だけを待っているわけではなく、雨を待つこともある“黒澤組”の情景がよくわかる、いいタイトルだと思う。
 本書はそんな間近で黒澤明監督に接している人の“黒澤”関連本だから、おもしろくないわけがない。黒澤ファンなら一気に読める。最も興味深いのは、『影武者』での勝新太郎降板劇のくだりであろうか。実際にその時、監督の黒澤明と主役の勝新太郎の間を往復している人なので、伝聞でない話には迫力がある。
 本書の前半は、黒澤組でのさまざまな出来事を綴りながら、撮影や、美術など映画の製作現場のさまざまな仕事について紹介しているので、映画製作の入門書的な側面でも楽しめる。しかしながら、映画の製作とは、ひとえに監督次第であるので、監督が替わればその作り方も変わってくるようなので、あくまでも本書は、“黒澤組”での「制作ノート」として読んだほうが真っ当な読み方というべきだろう。
 後半は、映画に関わった人々のレクイエムとなっている。“黒澤組”のスタッフとキャストの物故者に対する追悼となっているが、それはまぎれもなく著者の野上照代さんがご高齢にもかかわらずご活躍されていることの証左にほかならない。

天気待ち―監督・黒澤明とともに

天気待ち―監督・黒澤明とともに

 『評伝 黒澤明』(堀川弘通 著 毎日新聞社(2000))
 黒澤明監督の助監督として『七人の侍』などに参加し、黒澤明の門下生を自認する堀川弘通の本である。やはり、『七人の侍』に関する記述に多くの頁を割いている。野武士に襲われる村での撮影やその時のキャメラワークなどはとても興味深く読める。前述の『天気待ち』は同じ“黒澤組”でも女性の野上照代が書いているが、こちらは男性である。つまり両書を読み比べることによって、黒澤明を見る目が、女性の視点と男性の視点という観点から微妙に違っているのがわかる。
 本書は、黒澤を師と仰ぎつつも、黒澤の存在を自己の成長過程における一通過点として冷徹な目で見ている。一方の野上の『天気待ち』では、最初から存在している聳え立つ黒澤、という視点、つまり仰ぎ見続ける視点が終始変わらない。変わらない視点は客観性を持つ。気持ちにブレがないから、時代が変わっても同じ感覚で記載している。しかしそれは、逆に批判的に見ていない、ということでもある。本書は畏敬の念を持ちながら、批判の対象としても、黒澤の姿を捉えているところに興味を惹かれる。黒澤の全30作品を“黒澤組”の内部の人間がそんな観点で論じている。

評伝 黒沢明

評伝 黒沢明

 『複眼の映像−私と黒澤明−』(橋本忍 著 文藝春秋社(2006))
 橋本忍は、黒澤明監督作品の中で多くの脚本を手がけた、日本映画脚本界の巨匠である。多くの黒澤映画はいわゆる“共同脚本”という形を採っている。複数の脚本家が共同して一つの映画の脚本を書く。通常、映画のタイトルロールで脚本家が複数の場合は、一人の脚本では満足しない監督が他の脚本家に手直しさせたり、監督自らが手直ししたりした作品である、という理解で正解であるが、黒澤作品では、そういう仲違いや修正ではなく、本当に“共同執筆”であった、ということが本書を読めばよくわかる。
 昭和29年の『七人の侍』まで黒澤映画では、最初にひとりの脚本家が原稿を書き、そのあと黒澤を含めた複数の脚本家が温泉宿などに缶詰になって、更に練り上げた脚本を完成させる、という方法を採っていた。本書の執筆者である橋本忍、という脚本家は、黒澤作品の中でも、名作の誉れ高い『羅生門』、『生きる』、『七人の侍』の第一稿執筆者である。
 本書を読んで最初に感じたことは、本書は脚本を書く上でのテキストになりうる内容を持っている。ということだった。少しでも脚本=シナリオに興味のある人にとって、本書は素晴らしい指針となると思う。
 「シナリオは映画の設計書」という文言が出てくる。小説や散文はそれ自体が目的であるが、シナリオは映画という作品を完成させるための青写真であるから、あやふやな表現や余分なものはシナリオにあってはいけない、ということである。映画にとってシナリオが一番重要なものであり、そのシナリオで重要な要素は、一にテーマ、二にストーリー、三に人物設定である、と云い切っている。テーマとはその映画で訴えたいものであり、示したい指針である。ストーリーは、いわゆる「起承転結」のことであり、スタート・展開・クライマックス・ラストがしっかりしていないと退屈な映画になってしまう。そして人物設定があやふやなままだとストーリーに祖語が生じてしまい、最後まで話が続けられなくなる。
 以上のような脚本論もむろんおもしろいのであるが、本書の核はなんと云っても、橋本が第一稿を担当した、『羅生門』、『生きる』、『七人の侍』が生まれて成長し完成するまでのくだりであろう。実におもしろい。誠に見事なのである。ここを読んで、これらの映画を観ることを是非勧める。観てから読んでもいい。上に書いた、シナリオの三原則、“テーマ・ストーリー・人物設定”も併せて確認しながら鑑賞すれば、いっぱしの黒澤映画評論家である。
 本書の著者である橋本忍は、渾身の作品である『七人の侍』が終わると、“みずみずしい、恐らく生涯忘れ得ないものとも思われる、自信と覇気に満ちた力感”が全身を貫いた、と云っている。何でも書ける、という自信だ。迷ってばかりいた若い脚本家が巨匠と云われるような大作家になっていく成長物語でもある。

複眼の映像 私と黒澤明

複眼の映像 私と黒澤明

 以上の3書籍を読めば、“巨人−黒澤明”と表現されることが多いその姿が、言葉の形容だけでなく、実体として本当に大きかったのが、がよくわかる。結局、今回の執筆者である3人も含めて黒澤の周りの人々は、黒澤明という一個人と交流することによって自己の存在を示してきた普通の人である。それはつまり巨大な黒澤と自分たちを比較することには意味がない、と云っているのであり、読者にも黒澤の偉大さがあらためてよくわかるだろう。