『黒澤明という時代』(小林信彦) ほか

第6回 黒澤明生誕100年記念(後編)−黒澤明と黒澤映画−

 前回に引き続き、黒澤関連本を紹介する。先月は黒澤と一緒に仕事をした人の書籍を載せたが、今月は黒澤の映画を観た人の著作物を選んだ。
 俎上に載せた本のすべてに共通することがある。
 “黒澤は人間を描いている。人間が生きる、ということを伝えている。人生の本質を表現している。”
というようなことを異口同音に述べているのだ。
 たまたま、小欄の筆者が手に取った書籍がそういうことを云っていただけなのだろうか、否。そうではないだろう。実に黒澤映画の面白さは、観る人をして、人生は捨てたもんじゃない、と思わせる魔力がある。観終わった後のすがすがしい昂揚感がたまらない。それはつまり、“人生の本質を表現”しているからに他ならないと思う。
 また、どの本の筆者も黒澤映画をよく観てよく分析している。黒澤明というひとりの人間の生涯にとことん付き合った、ということだ。黒澤明は、映画監督という作家であり、作家というのは、自己と真摯に向き合って己を見つめながらひとつの作品を造っていく人のことであるから、黒澤明の映画について語ることは、結果として黒澤の人生を分析することになる。身内でない分、容赦なく批判しているし、また逆に遠慮なく褒めてもいる。
 数多の黒澤映画の論評書の中から以下の書籍を選んだ。どれも見事な黒澤評論である。

黒澤明 大好き!』(塩澤幸登 著 やのまん(2009))
黒澤明という時代』(小林信彦 著 文藝春秋(2009))
黒澤明の作劇術』(古山敏幸 著 フィルムアート社(2008))

黒澤明 大好き!』(塩澤幸登 著 やのまん(2009))
 編集者で作家の塩澤幸登の作品。
 表紙を見るとサブタイトルというか、題名の前にやや小さい文字で「強烈な優しさと強烈な個性と強烈な意志と」という長めのコピーが書かれている。「強烈な」という形容詞が三回も出てくるこのコピーで、本書に書かれていることや、そこから導かれる黒澤明の個性がわかろう、というものである。本書は今回挙げた3冊の中で最も黒澤映画と黒澤明を好意的に見ている。
 映画を作る時に、何が一番大切なことなのか。著者は迷うことなく、それはテーマだ、と云っている。そして、そのための最初の一歩が脚本である、と云っている。テーマ(云いたいこと)を実現させるためには何よりも脚本がよくなくてはいけない。黒澤映画の特色はどれも、その脚本がしっかりしている処にある。膨大なイメージがぐるぐるととぐろを巻いているような手強い脚本、その脚本をいかによりよくイメージ通りに映像化させるか、そのために美術や撮影や編集にさまざまな工夫をこらしている。黒澤映画の場合、その工夫のひとつひとつが嚆矢となり、後の映画人の手本となっている。“いかにいい映画を作りたいか”ということを黒澤明という映画作家がとことん考えていた、ということであろう。
 そして、本書のエキスは、「私は黒澤明の作った作品に、ある日、気がついた[人は生まれ、苦しみ、死ぬ]というテーゼ、人間の認識が苛烈な形で存在しているのを感じるのである。黒澤明は、映画の中で、最初から最後まで、このことをくり返して描こうとした。」それが実現できてはじめて、黒澤にとって“いい映画”となるのである。

黒澤明大好き!―強烈な優しさと強烈な個性と強烈な意志と

黒澤明大好き!―強烈な優しさと強烈な個性と強烈な意志と

黒澤明という時代』(小林信彦 著 文藝春秋(2009))
 作家、評論家、コラムニストとたくさんの顔を持つ小林信彦の作品である。
 黒澤監督の映画、30作品をすべて観て、それを制作された年代順に評論をしている。文藝春秋社のPR誌である『本の話』に連載されていたものを一冊の単行本にまとめた。単行本化する時に書き下ろした最終章を除き、全20章に黒澤映画のタイトルがつけられている。
 昭和ひと桁世代の小林は、黒澤作品を常に同時代のものとして第1作の「姿三四郎」から劇場で観ている。いったい、ひとりの作家の作品をその第1作から遺作まですべて同時代として=リアルタイムに鑑賞する、ということはどんなことなのだろう。今ならさしずめ、村上春樹の作品を彼のデビュー作から新刊書で読み続けている人のことを想像するとわかりやすいかもしれない。小欄の著者である自分は、振り返ってみてとそういう作家がひとりもいないことに気が付き、すこし寂しい気分になった。
 閑話休題。題名のついた20章は、小林なりの純粋な作品解説である。しかしそれにしてもよく観ている。映画の中のシークエンスを解きほぐし、カット割りを解説してくれる。作家だけあって文章がうまい。映画を観る前に読んでも観た後に読んでもどちらでもよい。小林が本書で繰り返し愛情を込めて褒めているのが、渡辺篤、田中春夫、日守新一、三井弘次、左卜全などの癖がありあくの強い名脇役たちである。実際に観るとまさに、当時の日本映画界の層の厚さを思い知る。
 本書の主題は、書き下ろしの最終章「テクニックと〈言いたいこと〉」にある。しかし、その冒頭に「・・・・・・特に、戦時中に「姿三四郎」で登場した時の鮮烈なイメージは、ビデオやDVDで〈黒澤明を観た〉世代には想像もできないと思う。これは確信がある。名画座で観た世代とも話は合うまい。黒澤に限らず、映画は封切られた時に観なければ駄目なのだ。」と書かれていた。それを読むと、トホホな気分であり、そりゃないぜ、という気分である。羨ましさと切なさと開き直りと。こちらは東京オリンピック開催・新幹線開業世代であり、本書で云えば最後から2番目である19章にその記載がある、「影武者」(1980年)が初めて封切りで観た黒澤映画なのだ。
 小林は黒澤映画をこう総括している。「〈黒澤流ヒューマン・アクション〉が存分に発揮されたのは、「天国と地獄」までであった。太平洋戦争末期から東京オリンピックまで――それが黒澤明という名の象徴する時代であった。敗戦・戦後から歪んだ高度成長期まで。名前が巨大になりすぎた。それ以後は、絵画的で静的な世界に沈んでしまった。」

黒澤明という時代

黒澤明という時代

黒澤明の作劇術』(古山敏幸 著 フィルムアート社(2008))
 脚本家で評論家の古山敏幸の作品である。
 やはり本書でも、脚本がしっかりしていないといい映画はできない、と云い切っている。「黒澤映画が面白いのは、第一に脚本が滅法面白いからだ、と言い切ってしまおう。」
 現役の脚本家の立場から、黒澤映画の脚本の素晴らしさについていろいろ例証を挙げて評している。そして「痛快娯楽派」の菊島隆三と「重厚社会派」の橋本忍として、黒澤映画の東西両横綱とも云うべき名脚本家のふたりの脚本をそれぞれ章を設けて解説している。菊島は「野良犬」「用心棒」「天国と地獄」などで黒澤明と組み、橋本は「羅生門」「生きる」「七人の侍」で脚本の第一稿を書いた。
 もうひとつ、本書で注目すべき部分は、黒澤と三船との決別について論じた部分である。「三船敏郎との出会いと別れ」という章を設けている。三船敏郎という役者の存在感が大きすぎて、どんな役でも迫力と重量感のある人物になってしまう。黒澤監督の演出方法を三船の柄に合わせなければならないことになっていった。これが端的に表面化してしまったのが、「赤ひげ」であり、主役の新出去定を三船ではなく、別の役者が演じていたらこの作品はまったく違った印象になっていた、という。つまり黒澤は三船を御すことができなくなってしまった、ということであろう。また別の方向からみれば、黒澤は三船に象徴される強面を「赤ひげ」後にかなぐり捨ててしまった、と推理する。つまり老境に入った黒澤が心境にも段々と変化が始まっていった、ということなのかもしれない。
 本書の結論は、「あとがき」にある。「黒澤明ほど才能も個性も技量もある映画監督でさえ、三船敏郎菊島隆三橋本忍がいなかったら、あれだけの業績は残せなかった・・・・・・。」

黒澤明の作劇術

黒澤明の作劇術