『大系 黒澤明』1巻〜4巻

第7回 黒澤明生誕100年記念(引続き編)−黒澤監督自身のことば−

 前回、前々回に引き続き、黒澤関連本を紹介する。このテーマでもう少しお付き合いをお願いしたい。今月は、黒澤明監督本人の言葉を追ってみた。
 黒澤明本人の自伝としては、『蝦蟇の油−自伝のようなもの−』(岩波書店(1984))がある。『週刊読売』に連載されていたものを単行本にまとめたものである。本書は、「羅生門」がヴェネツィア映画祭でグランプリ(金獅子賞)を取ったところ(1950年)まで描かれている。その後も黒澤は50年近く活躍しているので、もしこの本が晩年に至るまで書かれていたならば、いったい何ページの本になっていたか、全何巻の大冊になっていたのだろうかと推測してしまう。しかしながら、過去を振り返っていられないほど多忙な黒澤は、途中で自伝を書くことを投げ出した。それ以降の黒澤本人の発言は、数少ないインタビュー記事や各界著名人との対談でしか窺うことができなくなった。残念ではあるが仕方ない。そしてその少ないインタビューの中でも黒澤は“ぼくの映画を観てくれれば、僕の考えていることがわかる”と繰り返し語っている。しかしながら、そのようなインタビューの記事や対談は、あちこちの書籍・雑誌に掲載され、すべてを閲覧することはもはや不可能であると思われていた。ところが今般、黒澤明生誕100年を記念して、『大系 黒澤明』という本が講談社より発行された。

 『大系 黒澤明』第1巻(浜野保樹 編集 講談社(2009))
 『大系 黒澤明』第2巻(浜野保樹 編集 講談社(2009))
 『大系 黒澤明』第3巻(浜野保樹 編集 講談社(2010))
 『大系 黒澤明』第4巻(浜野保樹 編集 講談社(2010))

 本書は黒澤明に関する記事を年代順に取り上げている。1巻から順に範囲を確認しておく。
 第1巻 中学生時代の作文から1951年(昭和26年)の「白痴」まで。
 第2巻 1952年(昭和27年)の「生きる」から「赤ひげ」の1965年(昭和40年)まで。
 第3巻 1966年(昭和41年)から黒澤明逝去の1998年(平成10年)まで
 第4巻 黒澤自身と映画全般に関わるものを網羅している。自伝『蝦蟇の油』集録。ロングインタビューや対談。詳細な年譜など。

 4巻すべてが700ページを超えた超大作である。しかも縦2段組なので、全編びっしりと文字が覆いつくしているという印象。たまに写真の頁があるとほっとする。しかしながら、読んでみればひとつひとつの記事自体はそれほどの分量ではないので、気がつけば、ある一時期の黒澤を通読していた、という感じなのだ。
 映画雑誌、週刊誌、月刊誌、あるいは畑の違う雑誌に寄稿した随筆。それに映画のパンフレットでの監督の言葉。それら発表された媒体が違うものが本書に一括して登載されているのが嬉しい。地道に記事を収集し、著作権などの権利関係を満たし、それらをひとつの書籍に収載するというむずかしい仕事をした、本書の編集者へ敬意と感謝を申し上げたい。
 ご覧のとおり、1巻・2巻・3巻は、年代ごとの編集なので、ほぼ映画ごとに黒澤監督の言動やスタッフの発言。そして映画評論家たちから受けたインタビューが中心となっている。企画から脚本執筆、撮影準備、配役決定、クランクイン、演出、撮影、クランクアップ、編集作業、試写会、一般上映・・・・・・という流れに沿って、編集されている。
 また、一方で黒澤の作品であってもなかなか目に触れないものもある。たとえば、戦争が終わって翌年の1月に発表された、黒澤が書いた芝居の戯曲「喋る」がそれだ。黒澤が芝居の戯曲を書いていて、その原稿が残っていてそれをちゃんと掲載している処はさすがである。そしてこの作品は、その名の通り、戦争が終わって自由にものが云えることを言祝いだ作品だ。
 平均750ページの本が4冊。3000ページ。1ページあたり原稿用紙にして丸々3枚にあたる1200文字がひしめいている。総文字数はざっと、3,600,000文字。物凄い分量である。むろんそのすべてを読んだわけではない。自分のお気に入りの映画についての章はじっくり読んだ。またどちらかといえば、黒澤以外の人の話は飛ばすことが多かった。黒澤自身が書いている部分。黒澤自身が話していることを文章におこした部分。あるいは、自分が好きな人と黒澤が対談している記事には目を通した。それでも半分も頁を逍遙していない。まったく読み飛ばした、と表現してよい読み方をした。
 しかし、そのような読み方をしても、そこから見えてきたものは、「生きる」や「七人の侍」製作時の40代の黒澤の発言と、「用心棒」や「赤ひげ」の50代。「影武者」「乱」などの70代。最晩年の三作品(「夢」「八月の狂詩曲」「まあだだよ」)製作時の80代。とその時その時で云うことがほぼ一貫している。ということだった。
 曰く、“映画は頭で撮っていない。心で撮っている。だから観客も心で観てほしい。”
 また曰く、“本当に映画を作りたいのならホン(シナリオ)を書きなさい。”
 さらに曰く、“想像は記憶である。何もないところからは何も生まれない。何かの経験があるから、いろいろなものが出てくる。”
 そして曰く、“俳優には人のせりふをしっかり聞け、と指導する。自分のせりふだけを喋るのでは、会話は成り立たない。暗記して相手を待っているだけではだめ。”
 曰く、“つなぎ目に映画がある。カットとカット。シーンとシーン。シークエンスとシークエンス。そのつなぎ目。映画の流れのつなぎ目に映画そのものがある。”
 ・・・・・・というようなことを、たえずくり返し黒澤は語っている。40代から最晩年まで発言にブレがない。彼、黒澤明は若いときから晩年に至るまで、脚本にも演出にも撮影にも編集にも、はっきりとひとつの確固たる方針があった。それは、若い時から変わらず、同じ方針であり、また信念であった。そのことを固く信じて、黒澤は自分の仕事に驀進したのだった。老境に入ってから確立したわけではない。
 上に記載したいくつかの発言のうち、最後に紹介した、「つなぎ目に映画がある」という発言は、なかなか難しい。実際に映画を作ったことがある人なら、その意味は理解できるかもしれない。しかし、単なる観客である我々には、この発言は禅問答のようにも聞こえる。自分もいつか理解できる日が来るといいな、と思っている。
 まったく、黒澤を見ていると、その発散するエネルギーの膨大さに驚いてしまう。ホンを書き、資金を集め、配役を決め、演出をして、撮影をして、編集をして、完成させる。どの映画でもそのすべての分野において、黒澤自身で行っているのだ。黒澤映画を観ると、ストーリーとか話の流れとか、訴えるテーマとか、そういうこととは別に、何かが迸っているのを感じる。それは黒澤監督の放つエネルギーであったり、黒澤監督の下で仕事をしているスタッフたち、いわゆる黒澤組から沸き立っている何かであったり、演じている俳優たちの発するオーラであったりするのだろう。黒澤に関する本を読めば、より多くの“迸る何か”をスクリーンから感じることができる。
 また、本書を渉猟してみて、あらためて思ったことは、黒澤が60代の時、年代で云えば、1970年(昭和45年)から1979年(昭和54年)までの10年間が本当にもったいない。「どですかでん」と「影武者」に挟まれたこの10年間で黒澤が撮った映画はソ連で撮影された「デルス・ウザーラ」1本だけである。映画監督として最も充実しているであろう60代を主に資金不足という外的要因によって肝心の映画がなかなか撮れなかった黒澤の焦燥感はどれほどのものであったであろうか。1971年(昭和46年)12月22日に黒澤は自殺未遂事件を起こす。なんとも苦々しい出来事である。

大系 黒澤明 第1巻

大系 黒澤明 第1巻

大系 黒澤明 第2巻

大系 黒澤明 第2巻

大系 黒澤明 第3巻

大系 黒澤明 第3巻

大系 黒澤明 第4巻

大系 黒澤明 第4巻

大系 黒澤明 別巻

大系 黒澤明 別巻