『血の収穫』(ダシール・ハメット)&『キングの身代金』(エド・マクベイン)

第8回 黒澤明生誕100年記念(もひとつ編)−映画の原作にあたる−

 今回は、いよいよ黒澤映画の原作を映画と比較しつつ、読み込んでみたい。まだまだこの黒澤明のテーマでお付き合いをお願いする。
 黒澤映画は、むろん『生きる』や『七人の侍』のようなオリジナル作品もあるが、原作ものの方が多い。しかしながら原作に沿って原作に忠実な作品はあまり多くない。舞台がヨーロッパのものを日本に置き換えたものでも登場人物や主筋がほぼ原作通り、というものがある一方で、あるひとつの出来事や話の舞台となるものだけを借りてきてそれを大胆に翻案したものもある。また黒澤映画で最高に筆者が面白いと思っているのは、原作の主人公の造型を黒澤監督は映画の主人公に扮している三船敏郎用にいじってしまい、結果として原作とは似てもにつかぬ性格となった主人公ができあがってしまう、という部分である。それが見事に成功しているから黒澤映画が偉大なる所以であろうか。
 今月は、アメリカの小説を2本。
 『血の収穫』(ダシール・ハメット)(RED HARVEST by Dashiell Hammett)(1929)(田中西二郎 訳) 創元推理文庫(1959)
 『キングの身代金』(エド・マクベイン)(KING'S RANSOM by Ed McBain)(1959)(井上一夫 訳) 早川書房(1977)

 それぞれどの黒澤映画の原作になっているだろうか。
 『血の収穫』は『用心棒』(1961)であり、『キングの身代金』は『天国と地獄』(1963)である。
 『血の収穫』は“ハードボイルド小説”の嚆矢となるような文学史上においても重要な作品であるらしい。――“らしい”と記載したのは、筆者がこの分野の小説についてほとんど知らないからである。今回、本書を読んだのはただひたすら、黒澤作品の原作に連なる作品である、ということに尽きるからなのだ。
 “ハードボイルド”とは、どういうジャンルの小説なのか。――「固茹で」という意味だが、この場合「玉子」の茹で方を表す。“固茹で玉子”。黄身も白身もどろどろせず、かちかちに固まって流されない状態を云う訳で、それがつまり感情に流されない、肉体的精神的に強靭な性格を形容する言葉になり、これが文芸用語に転じれば、犯罪など反社会的な事柄について批判を加えず客観的な表現を用いて感情を込めない簡潔な文体で書かれたものを表すことになる、ということだ。
 そういう視点で見れば、なるほど、これがハードボイルドか、と素直に思える作品なのだ。主人公は探偵社の社員。そしてある町の有力者の依頼でその町に行き、その有力者と面会しようとしたその時にその有力者が殺されてしまう、という災厄に見舞われる。しかしながらそれからこの探偵が活躍する。独壇場と云っていい。その町は利権と汚職と犯罪とが渦を巻いているとんでもない町だった。結果として主人公はその悪の巣窟である町の浄化をほとんどひとりで行ってしまう。その方法は、犯罪には犯罪を、暴力には暴力を、裏切りには裏切りを、という方法である。町を牛耳っているボスたちが取る行動と同じ方法で彼らを舞台から退場させる。相手に先に銃を抜かせる方法だ。その方法は挑発し中傷し誹謗しそして自ら銃を抜くと見せかけ、そして結果として相手に先に銃を抜かせるのである。この小説の主人公は自ら決して先に銃を抜かない。彼が自衛を別にして悪人たちを自らの手で殺すことはしない。悪人たちは勝手にお互いを殺しあって自滅してゆくのである。そこがまったくみごとに犯罪などを用いて感情を込めない簡潔な文体で書かれたもの、というハードボイルドの教科書のような作品なのだ。
 さて、本書は、果たして黒澤の『用心棒』の原作なのだろうか? 異論もあろうが、原作なのである。どんな処が原作なのか、と云えばずばり“状況”=“舞台設定”である。もっとはっきり云えば、それだけなのだ。主人公を含めた登場人物もせりふも違う。ただひとつ云えるのは、“よそ者の主人公がある場所に来て、そこに巣くう悪と対決して、すべて片づけ、そして去ってゆく”という状況が同じなのだ。
 『用心棒』は桑畑三十郎という放浪の浪人がやくざの跡目争いによって殺伐としている上州の馬目宿(架空の町)にやってきて、そこのやくざたちをひとりでやっつけてしまう物語である。『血の収穫』の主人公である“おれ”は、腕っ節はそれほど強くはない。そして基本的に人を殺さない。しかし『用心棒』の三十郎は凄腕であり、ばったばったと相手をなぎ倒し殺しまくる。一人一秒。三十郎に扮する三船敏郎は10人を切るのにほぼ10秒。この殺陣がこの映画の醍醐味のひとつなのだ。
 したがって、まったく違う物語と云ってもいいのだ。しかしその舞台となる町の状況と主人公の置かれた立場が同じなのだ。――悪徳が蔓延る町にやってきた彼がそれらを退治して町に平和をもたらす。
 ひとつだけ、この『血の収穫』が『用心棒』の原作であるという動かぬ証拠をお見せしようと思う。それは一カ所のせりふだ。
 原作の『血の収穫』で大ボスが新興の若手のボスに焼き討ちされ攻め滅ぼされる場面。
“家のなかから、わめく声があった――「レノ!」 レノは自動車の蔭へすっと隠れてから、どなりかえした――「なんだ?」「おれたちの負けだ」太い声が叫んだ。「出て行くからな。射つな」”
 これが『用心棒』では、こういう風になっている。新興やくざが元からの親分の家を焼き討ちする。
丑寅「清兵衛!・・・・・・出て来い。与一郎は泣きを入れたぜ!」 一瞬、騒ぎが静まる。
丑寅「どうした、清兵衛!」 煙の中から清兵衛の声がはね返ってくる。
清兵衛の声「丑寅・・・・・・喧嘩は俺の負けだ・・・・・・出て行くから与一郎も俺も殺さねえでくれ」”
・・・・・・どうだろうか。銃と刀の違いはあってもほぼ同じせりふだとご理解いただけよう。建物に火をつけて相手を燻り出す方法も同じだ。

 『キングの身代金』は、『天国と地獄』の原作である。それについては黒澤明も認めているし、映画の紹介でも原作は『キングの身代金』と出ている。
 確かに主人公は、靴のメーカーである企業の重役であり、彼が会社を乗っ取ろうとしているところから物語が始まり、そして誘拐が起こる。さらにその犯人たちが誘拐したのは主人公の子供ではなく使用人である運転手の息子であった、というところは、原作と同じである。本書のみそはこの「人違い誘拐」のアイデアに尽きる。これを『天国と地獄』ではより一層際だたせて見せている。
 『キングの身代金』が『天国と地獄』の原作であることの理由を黒澤はこう云っている。「誰をさらおうとも、脅迫は成り立つ、というあの思いつき。あれが素晴らしい着眼だったので、そこのところだけでもらったんです。誘拐罪というのは、日本では実に罪が軽いんですよね。」
 『キングの身代金』は、エド・マクベインの“87分署シリーズ”の一編である。このシリーズの主人公はその87分署のスティーヴ・キャレラ刑事だ。残念ながら筆者は本編以外このシリーズを読んだことがないから、批評を加えることはできないが、このキャレラ刑事は素晴らしい刑事なのである。しかし黒澤の『天国と地獄』では、主人公は靴屋の重役である三船扮する権藤氏だ。
 『キングの身代金』は、この靴屋の重役であるキング氏についてはその造型をそれほど掘り下げていない。むしろ彼の妻であるディエンの方により比重をかけている。また、『天国と地獄』では犯人の共犯者として出てくるが、せりふと名前はおろか顔も出て来ない女性は、『キングの身代金』ではキャシーという名前も顔も性格もしっかりと作られた人物として登場する。そして原作では、ディエンが身代金の支払いを渋る夫を改心させ、キャシーが誘拐という卑怯な犯罪を失敗させるそのきっかけを作ることになる。ある意味本書は、ディエンとキャシーの物語でもあるのだ。しかし『天国と地獄』では、まったくキング氏役の権藤氏の独壇場なのだ。高慢な成功者が誘拐事件によって財産を失い、そして慈悲深い人となる。それはすべて三船敏郎扮する権藤氏がひとりで悩み、ひとりでたどり着いた場所なのだ。
 この2本の小説が出発点となった黒澤の2本の映画は、どちらも黒澤映画の中でもひときわ人気のある映画となっているが、それは一にも二にも主人公を演じた三船敏郎という稀有のキャラクターを有する役者あっての映画だからであり、そしてその三船のキャラクターを見抜いた黒澤明が中心となって書かれた脚本の勝利である。

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