『日日平安』『赤ひげ診療譚』『季節のない街』(山本周五郎作品)

第9回 黒澤明生誕100年記念(まだまだ編)−映画の原作にあたる(その2)−

 さて、今月は、山本周五郎の作品が原作となっているものを三点挙げて、考察してみよう。
 『日日平安』(昭和29年(1954)) 新潮文庫(改版)(平成16年(2004))
 『赤ひげ診療譚』(昭和33年(1958)) 新潮文庫(改版)(平成14年(2002))
 『季節のない街』(昭和37年(1962)) 新潮文庫(改版)(平成15年(2003))



 それぞれ黒澤映画では、
 『日日平安』は『椿三十郎』(1962)
 『赤ひげ診療譚』は『赤ひげ』(1965)
 『季節のない街』は『どですかでん』(1970)

 三作品のうち、『日日平安』(『椿三十郎』)と『赤ひげ診療譚』(『赤ひげ』)の二作品は江戸時代が舞台の髷物であり、『季節のない街』(『どですかでん』)は、現代(その当時の現代)が舞台である。
 山本周五郎の作品の特徴、素晴らしさはどんなところにあるのだろうか。それは市井の人々、普通の人々、名もない人々を主人公にしている、という処であろう。つまり歴史上の偉人や有名人(剣豪・文化人・経済人など)の物語ではなく、武士でも百姓でも職人でも商人でも、無名の人々の物語を数多く残した、というところにある。
 また、山本周五郎は、時代小説の大家であるが、いわゆる“チャンバラ”の描写は少ない。
 剣戟の場面がいいと云われる作家は、たとえば吉川英治であり、柴田錬三郎であり、池波正太郎であり、津本陽であり、藤沢周平もなかなかのものを書いている。しかし、山本周五郎はそうではない。
 『日日平安』では、主人公はほとんど剣を使わない。
 『赤ひげ診療譚』では、刃を交える場面はないが、一ヶ所だけ柔道と拳法が合わさったような、武器を使わず素手で立ち向かう場面がある。この場面は文章表現が少なくあっという間に片付いてしまう。以下そこを引用してみよう。―― “男は突然、去定にとびかかった。登はあっけにとられ、口をあいたまま茫然と立っていた。裸の男がとびかかるのははっきり見たが、あとは六人の躯が縺れあい、とびちがうので、誰が誰とも見分けがつかなかった。そのあいまに、骨の折れるぶきみな音や、相打つ肉、拳の音などと共に、男たちの怒号と悲鳴が聞こえ、だが、呼吸にして十五六ほどの僅かな時が経つと、男たちの四人は地面にのびてしまい、去定が一人を組み伏せていた。”―― これだけである。
 ここまで書いて、では映画の『赤ひげ』では、この場面はどうなっているのか? と脚本を見てみると、驚くなかれ、この文章がそのままト書きになっているではないか。それが赤ひげこと新出去定に扮する三船敏郎が岡場所の地回り相手の剣ならぬ拳でやっつけるあの有名なシーンなのか。我々観客は原作と映画がアクションで完全に一致している処を観ていたんだ、と妙な理屈をつけて感動した。
 話が脇に逸れたが、つまり山本周五郎の作品には剣戟、殺陣の場面がそれほど多くない、ということが云いたいのだ。そしてそのことは、痛快な大立ち回りが多い黒澤映画と矛盾するのではないか、なぜ黒澤は立ち回りの少ない物語である、山本周五郎の作品からふたつも時代劇を映画化したのか。という疑問がそこにある。
 黒澤映画の特徴は、このシリーズでも過去に幾度か述べているが、人間性への絶大な信頼感、人間賛歌、つまりいわゆるヒューマニズムが特徴であるから、同じく人間をいつも肯定的に見ている山本周五郎の作品に共感を持っていた、ということは云えるであろう。
 『日日平安』は、黒澤が脚本を書いて、別の監督がこの題名で撮ることになっていたが、前年の『用心棒』の大成功が会社(東宝)に“せっかくだから三十郎でもう一本なんとかならないか”ということを云わせた。そこで黒澤はこの『日日平安』の脚本を返してもらい、三十郎用に書き直したという。三十郎と云えば、むろん三船敏郎で、そうならば、迫力ある殺陣シーンがなくてはならない。しかし、残念なことに原作にはほとんどチャンバラシーンが出てこない。したがって映画『椿三十郎』における原作としての『日日平安』は、藩の不正を暴く若侍たちに手を貸す浪人の主人公、というプロットだけが生かされているといっていい。主人公の名前も菅田平野から椿三十郎に変更されている。主役の名前はどうしても三十郎でなければならないので、最初に変えられる運命にあった訳であるが。この『日日平安』(菅田平野)の脚本を『椿三十郎』に短期間で変更してしまう、黒澤明やチームとなった脚本家たち(小國英雄、菊島隆三)の筆力たるや鮮やかで凄まじいものがある。とは云いながらも、主役は三船なので、彼に合わせて書いていけば自然とああなるのであろう。この『椿三十郎』はまったく三船敏郎あっての『椿三十郎』なのだ。
 それにしても、お蔵入りとなったもとの『日日平安』が実際に撮影され完成されていたらどんな映画になっていたのだろう、と想像するとすこし残念な気もする。剣を使わない(つまり弱っちい)主人公=菅田平野を誰が演じるのだろう、と想像するとちょっとおもしろい。あの当時で云えば、小林桂樹あたりであろうか。あの飄々としたそしてひょうきんな演技力を持った彼ならばうってつけではないか。そういえば、小林桂樹は『椿三十郎』に出演していて、捕虜となった敵側の侍役であるが、最後は完全にこちら側のシンパになってしまう親しみある役どころだった。
 『赤ひげ』の三船敏郎の凄さ。鋭すぎる眼光。圧倒的迫力。彼が喋るせりふのひとつひとつが、重々しい。とても大きな役者である。この映画を観てまったくそう思わずにはいられない。三船はこの映画で黒澤と決別する。これ以降、三船は黒澤の手を離れ、世界のミフネに成長する。喧嘩別れではないことは周辺の人々の証言から明らかだ。黒澤はこれで充分だ、と考えたのだろう。そして三船も多忙になる。自分の映画に出演している時は他のものに出ることを嫌う黒澤の作品には、実質的に出演が不可能になる。黒澤の作品は拘束期間が年単位だ。
 小説の『赤ひげ診療譚』も映画の『赤ひげ』も主人公は赤ひげこと新出去定か、それとも弟子の保本登か。この物語はふたりがほぼ同じ比重で主人公なのだ。かれらふたりは師弟関係にある。この物語を黒澤が映画化した、ということはよく理解できる。彼は“師弟関係”が大好きなのだ。大きな存在が若く未熟な者に対して教え導くというプロットである。処女作品である『姿三四郎』から始まり『酔いどれ天使』、『野良犬』。そして『七人の侍』もその範疇に入るだろう。『用心棒』も『椿三十郎』だってそうだ。そして極め付けがこの『赤ひげ』である。偉大な先生がいて、未熟で生意気な若造がいて、そして若造は先生に最初は反発するだけだが、いつしか共感し理解し、己の不明を恥じ、そして最後は完全に心酔する。あるべき姿の素晴らしい師弟関係の見本のような物語がこの『赤ひげ』には詰まっている。
 『季節のない街』は『どですかでん』という題名で映画化された。『季節のない街』は群像劇である。だれかひとりの強烈な主役がいるわけではない。そしてその主役を軸にして明快な筋書きがあるのではなく、そこに住んでいる人々それぞれの細かいエピソードの積み重ねになっている。
 最初に六ちゃんという少年が出てくる。彼はすこし足りない。本物のように架空の電車を運転している。そして読者も観客も六ちゃんが走らせている電車に乗って、その街に入る。その電車の走る音が“どですかでん”なのだ。その街にはいろいろ変わった人々が住んでいる。かれらを表現することにより、人間の喜怒哀楽を描き、そして特に人の哀しさと愛おしさを表現している、と云ってよい。そのことは山本周五郎のこの物語はむろん黒澤明の作品にも共通している。人間をすべて肯定的に見ているのだ。
 たくさんの人物が出てくる。そして映画では伴淳三郎三波伸介といった、一流の喜劇人が参加しているのが嬉しい。しかしなんと云ってもこの映画で最優秀演技賞を贈るとしたら“たんばさん”に扮する渡辺篤であろう。あの枯れ具合が何とも云えない。常識と思いやりをうまく表現している。彼は日本初のトーキー映画である『マダムと女房』(1931)に主役で出演している往年の名役者である。
 ひとつの物語を映像化するにあたって、登場させる人物と省略する人物との差は何だろう。という詰まらないことをずっと考えながら『季節のない街』を読み、『どですかでん』を観た。そして映像化されていないエピソードが、いかに自由に自分の頭の中で膨らんでいるか。想像力にまかせていろいろと考えるのに対し、映像化された部分がどれだけそれに囚われてしまっているか、ということを思う。映画監督は単に演出する、ということだけではなく、ものを生み出す作家なんだ、とあらためて感じた。
 次回も“―映画の原作にあたる―”でやってみたい。まだまだおつき合いを願う。

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