『白痴』(ドストエフスキー)

第10回 黒澤明生誕100年記念(さあこれからだ編)−映画の原作にあたる(その3)−

 さて、いよいよ重量級の原作を紹介する時がきた。
 なんとなんと、ドストエフスキーの『白痴』を取り扱おうと思う。
 ロシア文学の古典を小欄で扱うなどとは、まったく無謀にもほどがある。しかしこれを避けて通れない。黒澤映画の『白痴』(昭和26年(1951))はドストエフスキーの同じ題名の長編小説が原作であることは間違いないのだから。
 このドストエフスキーの『白痴』は、最近になって新訳が出版された。
 『白痴』(1868) 河出文庫(?・?・?)(望月哲男訳)(平成22年(2010))(河出書房新社

 外国暮らしが長かったムィシキンが久しぶりに母国ロシアに帰還し、そこで出会った一人の男(ロゴージン)とふたりの女性(ナスターシャとアグラーヤ)との愛と憎悪の物語である。主人公ムィシキンは純真無垢な性格であり教養もそこそこ身に付いている好青年なのだが、一方のロゴージンは粗野で無教養な若き商人であり、このふたりの白と黒。昼と夜。正と邪。の対称がこの長編小説を奥行きのあるものにしている。このふたりの男性が美女ナスターシャに対して、それぞれがそれぞれの方法で求愛をする。その三角関係が一方の形であり、もう一方はムィシキンの遠縁の娘であるアグラーヤとムィシキンの好関係にナスターシャが割って入ることによってできる三角関係である。ふたつの歪な三角関係がこの4人の男女をのっぴきならない状況に追い込み追い詰め、そして破滅へと進んでいく。ムィシキンの純真無垢な行動がそうさせてしまうのであり、またロゴージンの粗野な嫉妬心がことを進めてしまう。さらにナスターシャの高慢さも原因になり、アグラーヤの人見知りと意地悪さも破滅の要因である。4人のうちひとりでも欠けていれば、この悲劇は生まれなかった。読者は時にハラハラしながら、時に微笑みながら、また時にイライラしながらこの長編の頁をめくっていくのである。設定としてひとつおもしろいな、と思ったことは、主人公のムィシキンは癲癇(てんかん)を患っている。彼が危機に陥る時、彼は癲癇(てんかん)の発作に陥り、そのことで危機を脱するのだ。そして舞台がひとつ廻り、次の段階へと進むのである。物語を発展させていく上で、おもしろい装置だと思った。場面を転回するためにその舞台を暴力でご破算にするのではない処がいい。

 映画ではムィシキン(亀田欽司)に森雅之。ロゴージン(赤間伝吉)に三船敏郎。ナスターシャ(那須妙子)に原節子。アグラーヤ(大野綾子)に久我美子。括弧内が映画の役名である。ナスターシャが那須妙子=なすたえこ、という日本名になるのには笑ってしまった。この4名の主役はどれもたいへんな役だと思う。ムィシキンの抑制された、しかし暗くなりすぎない表情を出すのは結構たいへんだと思うが、森雅之はそれを自然に表現している。本作『白痴』のひとつ前の作品がヴェネツィア金獅子賞の『羅生門』であり、森はこの『羅生門』で侍を演じたのだが、その森が『白痴』ではムィシキン=亀田欽司を演じている。まったくこれが同じ役者なのかと驚いた。しかしムィシキン以上に難役なのはナスターシャであろう。高慢・妖艶・陰鬱・狂騒など多面的な表情を出さなければならない。昭和25、6年の頃にこの役をこなすことができるのは原節子くらいだったのだろうか。ナスターシャは彼女のニンに合ってない(歌舞伎の世界で使うこの“ニン”という言葉を映画女優に使用していいのか疑問。つまり“ニン”とは役者のもつ性格や芸風をいうのだけれど・・・・・・)。ロゴージンはそのまま、三船しかいない。おそらく例によって黒澤は脚本段階からロゴージンを三船のニンに合わせて造形したのであろう。映画の脚本を読むとそれがよくわかる。また、黒澤組常連の志村喬千秋実、それに左卜全などが脇を固めるが、脚本をどう読んでも、その役はその人でしょ。というせりふ廻しなのだ。役者をみてホンを書く黒澤明なのである。しかしこの映画の一番の売りは久我美子のアグラーヤである。なんと云ってもとにかく美しい。清楚な美しさ。見とれてしまう。

 小説の『白痴』を読み、映画の『白痴』を観て、最初に率直に感じたことは、映画の暗さであった。小説には明るさがある。健康的な人間らしさ、というかユーモアがふんだんに散りばめられている。しかし、映画はなかなかむずかしい。くすりと頬が緩むような箇所がほぼ皆無なのだ。なぜか。
 ひとつには、映画の舞台が冬の札幌である、ということだろう。雪が積もる札幌はみごとにモノクロの世界であり、雪の白さが蔭なる黒を一層引き立てているのだ。
 そして、この作品が基本的に心理劇であることも原因のひとつだ。ほとんど笑わない4人の主役にカメラがズームインして苦悩する内面を表現している表情を写している。映画の制約、限界は画面からはみ出ている部分はまったくの「無」であるということだろう。映画の観客は愛と憎悪に苦悩する主役たちだけを観て陰鬱になる。しかし、小説は違う。すべてがそこにある。読者は360度全部が見えているのだ。すべてが見えるということは、表現がひとつではない、ということだろう。文章がすべてを表現しているのではない。描写されていないものは、読者の頭の中に存在している。そこでは無から有への変換が行われているのだ。想像力、恐るべし。
 さらに考えられることは、上演時間であろう。名作の映画化では、いつも文章の奥行きの深さと映画のそれの浅さが際だつ。しかし文章では到底表現できないものが映画(映像)にはある。それはその目の前の出来事だけを正確に写し出す、ということだ。目の前にあるものを表現する方法は映像にまさるものはない。つまりある程度長い物語を映画にしようとするならば、映画もそれなりに長いものになる覚悟がなければ、長編の映画化はしない方がいい、と結論せざるを得ない。映画の『白痴』の上映時間は166分。もともと300分近い長い作品であったが、観客動員がむずかしいと判断した製作会社の松竹は、それを半分程度に短縮するように指示した。10年後の黒澤ならばそんなことは云わせないが、この時の黒澤は数いる監督のうちのひとりに過ぎないので、製作会社の意向には逆らえず、フィルムを泣く泣くカットした。カットされたフィルムは行方不明になっている。いつかはもともとの264分という長さでこの映画を観てみたいのが黒澤ファンの願望である。それでも現在、我々は短縮前の脚本は手に入る。それを読んでみると、前半部分が大幅にカットされているのがわかる。映画では設定がよくわからないうちに物語はどんどん進んでいき、観客は置いていかれる印象があるが、長尺版はムィシキン(亀田欽司)がなぜこの場にいるのか、ということが説明されているので、物語への理解と共感を得ながら鑑賞することができるはずだ。
 『羅生門』(大映)の封切りが昭和25年(1950)8月26日。
 『白痴』(松竹)の封切りが昭和26年(1951)6月1日。
 『羅生門』のベネツィア国際映画祭金獅子賞受賞が、昭和26年(1951)9月10日。
 『羅生門』のグランプリ受賞が『白痴』の封切り前だったならば、フィルムの短縮という暴挙はなされなかったであろうことは誰でも想像がつく。運命とは云えまったく惜しいことをした。

 世紀の大作を俎上に載せて捌くことのなんとむずかしいことか。今月はこの辺で退散することにしよう。

白痴 1 (河出文庫)

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白痴 2 (河出文庫)

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白痴 3 (河出文庫)

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