『どん底』(ゴーリキー)

第11回 黒澤明生誕100年記念(どこまでも続くよ編)
−映画の原作にあたる(その4)−

 今月は、先月に引き続きロシア文学が原作となっている映画についてみてみよう。黒澤は自分というものを形成する上でロシア文学はとても大きな糧だった、と云っている。ドストエフスキーについてなら、小林秀雄と論争できる、とも云っている。
 マクシム・ゴーリキーの『どん底』は、戯曲の名作であり、本家のロシアも云うに及ばず、本邦でもたくさんの劇団が何度となく上演している作品である。作品は1902年に完成しており、日本における初演は、小山内薫の訳で1910年(明治43年)である。原作の完成からわずか8年後のことだ。この『どん底』は現在でも年に1度は東京のどこかでどこかの劇団が上演する人気演目なのだ。

 『どん底』(1902) 岩波文庫(中村白葉訳)(1936年初版)(2009年79刷)(岩波書店)

 この戯曲を黒澤は1957年(昭和32年)に同じタイトルで映画化した。
 タイトルは同じであるが、舞台設定は19世紀のロシアの場末の貧乏長屋から日本の江戸時代末期の貧民窟に変えてある。当然のことながら登場人物の職業も江戸末期のものに替えている。


 この『どん底』は主人公がいない群像劇であり、また起承転結がはっきりとした物語の形式になっていない。原作は四幕から成り立っていて、それぞれの幕は、それぞれある日の彼らの日常を描いている。ある貧民窟のある日を描いた第一幕から数日後の第二幕であり、それからまた数日後の第三幕であり、そしてまた数日後の第四幕である。だらだらと貧民たちの暮らしぶりが描かれている。と、思っていた。しかしこのたびこの原稿を書くに当たってはじめて気がついて、そしてびっくりした。ちゃあんと起承転結になっているではないか。第一幕で人物たちの紹介がてら訪問者を登場させ(起)、第二幕で筋の核となる出来事を描き(承)、第三幕で大きく物語が動き、訪問者は消え(転)、第四幕で穏やかにしかし衝撃的に終わる(結)。こうしてまとめてみれば確かに起承転結になっているじゃぁないか。しっかりと筋の通った物語になっているのだ。
 しかし戯曲を読んでいる時、あるいは芝居を観ている時、さらに映画を観ている時には、どうしてもだらだらとした感じが鼻につく。まとまりのなさが否めないのだ。人間の日常はなんと落ちつきなくてだらだらしたものか、ということを認識させられる。つまらないことにムキになったり、些細なことで口論したり、酒呑んだり、ばくちをやったり、泣いたり、笑ったりして毎日が過ぎていく、という印象であるのだ。メリハリがない。彼らの会話と動きの中に起承転結が埋没してしまったようだ。
 この本の持ち味は、そのストーリー性にあるのではないのだ。人間と人間が一緒に生活している時のぶつかり合いは、上流階級や富裕層よりも下層社会、貧民層の方がお互いの距離が近い分、よりリアルに描くことができる。そういう剥き出しの人間模様がこの作品の第一の魅力であろう。メリハリのない話の流れで大いに結構。この本の魅力は、彼らの会話にこそあるのだ。ああ云えばこう云い、憎まれ口とはったりの云い合い。それこそが素敵なのだ。
 人間とはなんと、強欲で横着で勝手で我儘な存在なんだろう。ということをつくづく考えさせられる。

 黒澤の映画『どん底』は、物語の運びと登場人物の配置をみた時、原作とまったく同じであることに驚かされる。観た順序は芝居の『どん底』が先なのか、それとも黒澤映画の『どん底』が先なのか、それぞれであろうが、どちらが先でも次に観たものが前に観たものと同じなことに驚く。登場人物の数やその配置、物語の流れは、まったく同じである。唯一の違いは、舞台はロシアと日本、ということだけだ。映画には原作にないオリジナルなものはない。同じなのだ。
 我々日本人にとって、完全に原作を超えている、と思われる処は何カ所かあるが、一番だと思われる部分を上げてみよう。
 まだ上を目指しているが道具を手放してしまった職人の男と、すっかり上昇志向をなくした気のいい遊び人との会話。
 原作では、
 職人「考えているんだ・・・・・・これからどうしたものかと思ってな。商売道具はなしさ・・・・・・なにもかも葬式に食われちまってよ」
 遊人「おれがいいこと教えてやるよ・・・・・・なんにもするな。ただ・・・・・・地球のお荷物になっていろ」
 “地球のお荷物”とは、重力に逆らわず、じっとして誰かからの施しを待つ、ということだろう。
 映画の脚本では、
 職人「思案してるのよ・・・・・・どうしたらいいのか・・・・・・仕事の・・・・・・道具がねえ・・・・・・弔いに食われちまった」
 遊人「いいこと教えてやろうか・・・・・・何にもするな、そのまま世間様におんぶしちまうのよ」
 なんと趣がありよくわかるせりふなんだろう。日本人ならこの感覚はよくわかる。“世間様”という言葉の持つ大きさと重さ。その世間様におんぶ=寄食する、と云い放っているのは、度胸がいいからか、それとも鈍感なだけなのか。たぶん世の中に対して達観しているのだろう。それに諦観もある。
 これはまさに脚本の勝利、と云える。

 『どん底』は、どん底のままで終わる。終わってみれば、誰一人としてどん底生活から抜け出すことに成功した人物はいない。好むと好まざるとにかかわらず登場人物はみんなどん底生活をそのまま続ける。
 そして、三通りの死がある。病死と自殺と他殺。死がどん底から唯一逃避する方法なのがやるせない。
 途中から参加して、途中でいなくなる人物がひとりいる。死んでいなくなるのではない。生きたまま逃亡する。原作でルカと名乗る巡礼者。映画では嘉平というお遍路さん。実は彼が物語の中心なのだ。ルカ=嘉平が焚きつけた火は大きく燃え上がり、そして急速に鎮火する。終わってみればふたりが死に、ふたりが牢屋に入り、彼以外のひとりが行方知れずになる。彼は最初のきっかけを作り、発端は連鎖を呼び、大きな騒ぎとなったが、彼自身は途中でそっといなくなる。彼はどん底から脱出しようとしている人の背中をすこしだけあと押しして、彼らを逃してやるつもりだったが、そうはならず、どん底から逃れ得た者は誰もいなかった。逃亡した彼はどん底から逃れたのではなく、おそらく別のどん底に移動しただけだろう。
 そうと気がついた時、原作で最後に牢屋の歌を歌い、映画の中では最後の馬鹿囃子が両方とも実はとても悲しいのである。

どん底 (岩波文庫)

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