『羅生門』『藪の中』(芥川龍之介)

第12回 黒澤明生誕100年記念(どんどん行こう編)−映画の原作にあたる(その5)−

 芥川龍之介の作品は、なかなか映画になっていない。鷗外・漱石の作品は映画化されているが、この芥川の作品は映画化=脚本化されていない。ということに当時まだまだ駆け出しだった新進の脚本家・橋本忍が気がつき、芥川の作品の中から『藪の中』をベースにして、夢中になって脚本を書いた。その脚本を黒澤明が読み、なんとか映画化したいと考えた。それがいまや映画の古典となった『羅生門』(昭和25年(1950))である。
 この辺のことは橋本忍の自伝的作品である『複眼の映像−私と黒澤明−』(橋本忍 著 文藝春秋(2006))に詳しい。この本は、本「書評のメルマガ」のVol452の小欄で紹介したので、そちらをご覧あれ。
 さて、映画の原作、『藪の中』という作品。文庫にするとたかだか20頁ばかりのまったくの短編である。一連の芥川の作品群のなかでは、“王朝物”と云われている。『今昔物語』や『宇治拾遺』などをネタにした平安時代を舞台にした作品であり、現在は他の王朝物と一緒に文庫で読める。
 『地獄変邪宗門・好色・藪の中』(1956)岩波文庫(2008第58刷)
 街道から脇に逸れた森の中で殺人事件が起こる。捕らえられたのは都で名高い盗賊である多襄丸。彼の証言の後に殺された男の女房が証言する。そしてさらに巫女の口を借りた殺された男の死霊が証言した。驚くことに三者ともその内容が違う、ということだ。多襄丸は自分が殺したと証言し、女は気がつくと自分が刺していたと懺悔し、死霊は絶望して自分の胸を突いたと物語る。事件は「藪の中」で起こり、そして真相も「藪の中」なのだ。
 芥川の原作は、格調高い文章で綴られている。いかにも芥川、という端正な筆運びである。盗賊の多襄丸でさえ、立派な盗賊に見えてくる。侍を縛り、女を手篭めにして、侍の太刀を奪うという卑劣な行為にも関わらず、である。ところがそれに比べると映画の多襄丸のなんと野性味の溢れた人物造形なのだろう。と原作を読んだことがある人は絶対に驚くはずである。これについては、もう小欄で何度も申し上げているとおり、役者が三船敏郎だからなのである。これがあの粗野で骨太でいかにも男くさい多襄丸になった主な原因なのだ。
 物語のあり方として、この『藪の中』はとてもおもしろく興味深い。ひとつの状況の中では真実は常にひとつしかないにもかかわらず、3通りのことが語られる。そしてその3通りの証言はすべて本当のことらしく、真実のように聞こえる。さらに芥川はお互いに矛盾し合った事柄をそのままの形で、冒頭から最後まで物語の中の話者に語らせっぱなしにしている。
 この『藪の中』だけでは、短すぎて1時間半の映画にはならない。『藪の中』の外側にもうひとつ『藪の中』を包み込むようなものがなければならない。と脚本家、橋本忍は考えた。そこで大枠としての物語を『羅生門』にしたわけだ。この『羅生門』も芥川の“王朝物”の範疇に入る作品である。この物語は『藪の中』よりももっと短い。文庫ではなんと10頁ばかりに過ぎない。
 『羅生門・鼻・芋粥・偸盗』(1960)岩波文庫(2002改版)(2010第11刷)
 物語は、ある下人が羅生門の楼に上で年寄りの着物を剥いで逃げていく、という話である。物語の舞台は羅生門それ自体だ。
 映画の『羅生門』ではどのようにこの芥川の『羅生門』を使ったのか。映画の冒頭で大雨の中に屹立する半ば壊れた羅生門がある。これは視覚的に素晴らしいものだ。観るものを圧倒するくらいの大迫力で迫ってくる。半分壊れた巨大な羅生門は、その映像を観るだけで、平安末期の荒れた世の中、すさんだ人心、無秩序な世相を想像できる。そんななかで起こった、矛盾に満ちた殺人事件。そして物語が語られるのだ。そしてラストもこの羅生門で終わる。雨が上がり、ひとりの男が赤ん坊を抱いて羅生門を後にする。男の後ろには巨大な廃墟の羅生門が聳えている。
 映画『羅生門』では、物語の中核をなす矛盾した3つの真実のありようとそれから映画の冒頭と最後に出てくる羅生門全景の巨大さと無秩序さ。このふたつがこの映画を奥行きのある面白いものにしている。
 芥川の物語では表現していなかったさまざまなものがこの映画には入っている。もちろんその逆もある。芥川の表現する暗さは映画にはあまりない。映画で表現されている殺伐とした世の中のありようは芥川ではあまり表現されていない。
 芥川龍之介の作品は、それ自体一個の素晴らしい作品である。また一方で、黒澤明監督の作品も、それ自体で独立した作品である。
 “読んでから観るか。観てから読むか”という問題ではない。芥川と黒澤の作品はそれぞれ、まったく独立した作品だと思わなければならないのだ。
 この作品に限って云えば、原作あっての映画、ということではないのだ。それを前提にして両者を鑑賞していかなければならない。つまり両者に主従関係はないのである。
 そういう目で鑑賞すれば、それぞれを自由に感じることができるはずだ。

地獄変・邪宗門・好色・薮の中 他七篇 (岩波文庫)

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羅生門・鼻・芋粥・偸盗 (岩波文庫)

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