『職業としての小説家』

 村上春樹が大いに語っている。紀伊國屋書店が発行の9割を買い取り、出版業界と流通の問題に一石を投じた『職業としての小説家』(スイッチ・パブリッシング)。そして読者交流サイトで読者からの質問に回答をしてそれを本にしてしまった『村上さんのところ』(新潮社)。小説ではない、村上春樹本が相次いで出版されている。今月は前者の『職業としての小説家』にスポットを当てよう。

『職業としての小説家』(村上春樹 著)(スイッチ・パブリッシング
(2015年9月17日第1刷)

職業としての小説家 (新潮文庫)

職業としての小説家 (新潮文庫)

 村上春樹の自叙伝と云ってもいいかもしれない。具体的な地名や固有名詞はほとんど出てこない。小説家としての村上春樹のいきざま。村上春樹がどのようにふつうの人から小説家へと変身していったか。村上春樹村上春樹たる由縁。そういうことが本人の筆で余すところなく表現を替え、事象と事物を替え、繰り返し語られている。村上春樹の世界がどのように成り立ったのかがわかるのである。だから、内容は読んでのお楽しみ。書評、感想はこれでおしまい。……って、そういきたいところだが、もう少し詳しく見てみよう。

 本書は村上春樹の作品に興味がない人が読んでもあまりおもしろくない。また、村上春樹の小説を読んだことがあっても、文学全般にあまり興味がなければ、これまた読んでもあまりおもしろくない。さらに、逆に村上春樹の作品だけに興味があり、他の文学作品にはまるで興味を示したことがない、という人もたぶん読んでもあまりおもしろくないであろう。

 というのも、本書に書かれているのは云ってみれば“村上メソッド”というべき、村上春樹村上春樹による村上春樹のための処方箋である。他の小説家が村上春樹と同じように孤高を保ちながら厳しい掟を自らに課しながら作品を紡いでいる、とは思えない。文学好きな一般読者は、村上春樹がどんな風に作品を紡いでいるのだろう、と他の作家との比較において本書を手に取るのである。本書の具体的内容については後述するとしても、およそ本書を手に取り興味を示す人はまさしく、文学好きに違いなく、ある特定の作家だけを偏愛しているのではなく、さまざまな人のいろいろな作品を読んでいる人たちである。この執筆子がまさにそういう気持ちで本書を手に取り、身銭を切って購入したのであるから、間違いない。

 それにしても本書の内容は凄い処だらけである。小説家・村上春樹のすべてが書かれていると云っても過言ではない。よくここまで書いてしまったな、という感想と共にストイックな村上春樹の生き方に舌を巻くばかりなのだ。小説家は長編小説を書くためにそこまで自分を追詰めているのか、と驚く。
 こんな一文がある。
 “小説家の基本は物語を語ること。そして物語を語るというのは、言い換えれば、意識の下部に自ら下がっていくこと。心の闇の底に下降していくこと……”と云い、その心の闇の中の混沌と巡り合い、それを物語にするのであるが、どうやらその「混沌」に巡り合うのは並大抵ではないらしい。“心はできるだけ強靭でなくてはならない。その強靭さを維持するために、その容れ物である体力を増強し管理維持することが不可欠”……なんだそうだ。小説家とはなんとたいへんな仕事なんだろう、と思う。戒律と自己鍛錬の厳しい修行僧のようでもあり、日々いいものを作り出そうと努力を怠らない優秀な職人のようでもある。さらに村上春樹は言葉を替えて畳み掛けるように、その混沌を言語化するための方策をこのように表現する。“……あなたに必要とされるのは、寡黙な集中力であり、挫けることのない持久力であり、あるポイントまでは堅固に制度化された意識……。”だという。

 精神のタフさがなければ小説家にはなれまい。という感想を持つのだが、村上春樹は本文では縦横無尽でもあとがきでは控えめだ。自分はあまりにも個人的な考え方をする人間であるから、そこどれだけの一般性・汎用性があるか、自分でもわからない、と正直に書いている。

 しかしながら、この村上春樹の方法で彼は小説家・村上春樹になったわけで、彼の考え方や生活スタイルを理解することは、今後も村上春樹の作品を読む上で、ひとつの澪標になることは間違いないだろうと思うのだ。
 本書を小説家へのガイドブックとして読んでもいいし、村上春樹の自叙伝として読んでもいい。彼の偽らざる想いがぎゅっと詰まっている作品になっている。
 そう。本書の最初の読後感は、嘘を読まされてない、ということだった。