『野火』

 大岡昇平は昭和19年(1944年)に召集され、フィリピンに派遣され、翌年1月に米軍に捕まり捕虜となった。その実体験を文章にまとめた『俘虜記』(1949)を世に出し、そして自分の体験を交えながら創作小説の『野火』(1952)を発表する。さらに時間をかけて完璧な取材をもとに『レイテ戦記』(1971)を出版した。『俘虜記』と『レイテ戦記』はノンフィクションに分類されてもいい作品である。今回は小説『野火』を取り上げようと思う。

『野火』(大岡昇平 著)(新潮社)(新潮文庫
(昭和29年4月30日発行)(平成27年5月30日百十刷)

野火(のび) (新潮文庫)

野火(のび) (新潮文庫)

 主人公の田村一等兵分隊長にいきなり頬を打たれる場面から始まる。そして分隊長の説教。最初から戦争という環境がいかに理不尽な状況の下に置かれているか、ということを読者に知らしめる場面なのだ。現代の戦争を知らない読者は、この最初の数ページを読んで、日本軍の無謀さと乱暴さを知ることになる。そしてそういうことを認識した上で、さらに本書を読み進めていくのだ。真実や正義、また論理的で合理的な行動と発言はまったく通用しない、なんとも理不尽な世界に戦々恐々となるのだ。しかしながら、この小説が発表された当時(昭和27年(1952))は、敗戦から10年経っておらず、戦争の記憶は昨日のことのように生々しいものであり、当時を生きている人々、本書を発行時に読んだ人々は、この冒頭の様子をそのまま日常の一風景のように感じながら読んだに違いないわけで、当時の読者は理不尽な社会と知りつつ、それを否定はしない読者であっただろうと考えながら、執筆子はこの場面を読んだ。まことにインパクトのある場面である。

 本作品は、1959年(昭和34年)に大映で映画化されている。映画でも冒頭のシーンは原作をそのまま再現している。大写しの田村一等兵の顔がいきなり殴られる。次の場面は向き合っている分隊長の顔のアップ。「ばかやろ。」から始まるせりふは延々と続く。原作ではほんの数行だが、映画は長いせりふが続く。役者は覚えるのがたいへんだったろう、と余計な心配をしながら観る。なぜ映画の分隊長のせりふが長いか。このせりふで状況をすべて説明しているのだ。田村一等兵の状況。わが日本軍の状況。敵の米軍の状況。現地フィリピンの状況。分隊長は田村を叱りながら、観客に本作品が成り立つための前提となる状況をすべて説明している。こうして脚本は作るのか、ということがよくわかる。

野火

野火

 分隊長に殴られ、駐屯地を追い出される田村一等兵。そしてここから最後まで田村一等兵の放浪が始まるのだ。敵と遭遇して戦闘になる場面はほとんどない。ひたすらフィリピンの大地をうろうろする。田村と同じようにうろうろしている日本兵に出会い、ともに行動し、そして見失い、またひとりになる。その繰り返し。この場で詳しく書いてしまうとそれは筋書きを伝えてしまうことになるので書かない。しかし田村のこの放浪が田村の精神を蝕んでいくことになる。ということだけは書いておく。

 実を云えば、田村が精神を病んでいるのか、病んでいないのか、最後まで読んでもそれはよくわからない。ある人は精神を病んだ、と思うだろうし、他の人は正常だった、と思うだろう。本書の筆者は、あえてその判断を読者に委ねているように思える。田村が出会う敗残兵たちは確かに病んでいる兵隊が多い。そして病んでいる兵隊も病んでいない兵隊もどんどん死んでいく。餓死だったり、銃殺だったり。死はとても身近に存在している。田村もむろん死を予感している。
 そして、もうひとつ特徴的なことがある。神。神への忠誠。神に対する信仰。田村の心の中には神が宿っている。信仰を持った田村は、自分の行動を神の声によって決めている。それが狂っているのか、そうではなく信仰心の篤い想いの発露なのかは、わからない。読者の判断に任せている。日の光が反射している十字架をジャングルから田村は見る。村の教会である。そこまで行こうと決心する田村。そして村に入るとそこは廃墟になっていた。人は誰もいない。ジャングルから見た十字架の教会の前に来た時、田村は何があったのか理解した。たくさんの日本兵の死体が教会の前に転がっていた。敗残兵となった日本兵が村を襲い略奪する。しかし村人から逆襲を受け殺されたのだ。それも教会という神の前で。戦争と信仰と生存と。いろいろなことを考えてしまう、象徴的な場面だ。

 読者はいやも応もなく厭戦気分になる。戦争とはまったく割に合わない。そういう意味で、この小説は立派な戦争文学と云える。しかし実はこの小説は、主人公の田村が壊れていく過程を描写した狂人への過程の日記に過ぎない、という意見もある。そんな狂人日記は意味があるのか、それとも意味がないのか、それもわからない。読者ひとりひとり、感想が違うだろう。

 田村は狂っているのだろうか。執筆子はいまだにわからない。賢明な諸氏諸兄はどう判断されるのだろうか。
 残念なことがひとつ。今年この「野火」がまた映画化されて公開されている。まだ上映している映画館もある。この原稿を書く前に2015年版の「野火」を観ておきたかった。時間がなく、とても悔しい。

野火 [DVD]

野火 [DVD]