『高峰秀子との仕事 1・2』

 雑誌記者だった斎藤明美さんが松山善三高峰秀子夫妻の養子であり、夫妻の著作物の相続人であることは高峰秀子についてすこしでも興味を持っている人々にはよく知られている事実である。その斎藤明美さんが書いた高峰秀子へのレクイエムともいえるような書物がある。ちょうど3年前の震災の年の4月に初版が出版された。本来なら、その年の1月や2月に発行されていてしかるべき書籍なのだが、4月にずれ込んだ。なぜか? 震災の影響ではない。前年の暮、平成22年(2010)12月28日に高峰秀子が永眠したからである。本の仕上げの最後の最後の土壇場で養母であり本の主人公である、高峰秀子が逝ってしまい、著者は力が抜けてしまった。本を仕上げる意欲を取り戻すまでに3ヶ月程度かかったのである。

 『高峰秀子との仕事 1・2』(齊藤明美 著)(新潮社)(平成23年(2014).4.20)

 本書は1巻2巻と2冊ある。そして本書は養女にして文筆家の斎藤明美氏が稀代の大女優にして名随筆家でもあった高峰秀子との交流・・・仕事を通じての交流を高峰秀子との出会いからその死で永遠に別れるまでを描いている。
 本書は高峰秀子への愛に満ちた書籍である。しかしただのファンレターではない。高峰秀子と仕事をして一緒に住んで、彼女に対する尊敬、憧憬、信頼、忠誠、そして愛。一途な愛で全編が綴られている。その「愛」の形も複数ある。師弟愛がひとつ、もうひとつは肉親の愛に近い、家族愛。著者の斎藤女史は高峰秀子を唯一大きな師と仰ぎ見ている。そして同時に親に対する無条件の信頼の愛も貫いている。


 そんな著者がその当時の著作物を転載して、その作品がどうやって生まれたか、どうやって高峰秀子に了解を取り付け、どうやって記事を書いたか・・・つまり、高峰秀子とどんな仕事をしていたか、を記載している。映画に興味のある人も高峰秀子のファンも、そして編集とか出版など、本を作ることに興味のある人、あるいは実際に本を作っている人にはたいへん興味深い内容の書籍となっているのだ。

 本書には何人かの魅力的な男性が登場する。それは高峰秀子が興味を持ち、生前、「あの方はどうしているかしら?」とふと思い出す人たちである。画家の安野光雅さんや作家の司馬遼太郎さんがそうなのだが、中でひとり特別に若い世代の男性がいた。沢木耕太郎さんである。沢木耕太郎さんは高峰秀子とまだ一面識もないときに、彼女の著作で実質的な処女作であり自身の半生記である『わたしの渡世日記』の解説を書いた。その中にこんな一文がある。
高峰秀子という名前は、華麗さと堅牢さがないまぜになったような独特の趣きがる。それは養母の芸名であり、現し身の人間としてはどこにも存在しない幻の人物でもあった。彼女は、このどこにもいないはずの『高峰秀子』に向かってゆっくりと成熟していったようにも思われる」
 この表現を高峰秀子はとても気に入っていたという。高峰も沢木もお互いに会っていない。しかし、お互いに相手を思う気持ちがある。それは完成された人間関係、究極の人間関係のような気がする。少なくとも著者には高峰秀子と彼女を取りまく人間の相関はそのような形で取って現れているように思えるのであろう。読者である我々も本書を読み進めていくうちにそのように感じるのだ。
 高峰秀子は“はらわたのある女優”になりたい、と云ったそうだ。“はらわたのある”とは何だろう? 見てくれだけで判断されるのではなくその内面、中身で勝負をする女優になりたい、ということであろう。しかし本書の著者も、この雑文を書いている執筆子も高峰秀子に対して、とっくに“はらわたのある女優”と思っている。思ってはいるが、そのような表現では云えない。中身のある女優、とか、容姿だけの女優ではない、とか、云うだけだ。随筆家としての高峰秀子の真骨頂はこの人物描写力、感性の煌きと語彙力の豊富さ、素晴らしい言語感覚にある。
 「衝動殺人 息子よ」を最後に55歳で映画を引退した高峰秀子はその後、著作者として第2のデビューを飾り、亡くなるまでの間に30冊近い著書がある。それだけの著作を残せたということは、本人が書くことが好きであるということはむろん大切な動機であるが、なによりも言語感覚が優れていたことが重要であろう。本書の著者である、斎藤女史は雑誌社の記者をしているくらいなので、ことばに関しては本職なのだが、この本書を読むと、著者は文章を紡ぐ、という作業について高峰秀子に教えられ、導かれているさまがよくわかる。まさに高峰秀子は著者にとって師なのだ。
 高峰秀子は“目利き”である、という。本物と偽物の区別を瞬時に判断する能力がある、という。その調子で人間も高峰秀子の目にかかり、本物と偽物に区別されていく。そしてむろん高峰秀子は本物の人間としか、接することをしない。では、どんな人物が本物なのか。一言でズバリと書いてはいないが、本書を読めばそれがなんとなくわかってくる。
 つまり、プロの仕事をする人が本物の人なのだ。プロの仕事とはなにか。甘えないこと納期を守ること、人のせいにしないこと、自分自身納得のいく仕事ができること。そのような人がプロであり、本物の人なのだ。
 それならよくわかる。我々の仕事もプロの仕事の人、素人の仕事しかできない人、いろいろな人と日々接しているではないか。本書は仕事の方法を導いてくれるビジネス書としても読める。
 天才子役として人々からもてはやされ、しかし成人になって失敗する人がいる。あるいは、天才子役としてその演技力が絶賛されるが、成人になると凡庸な芝居しかできなくなる人がいる。また有名女優となって、人々から賞賛されチヤホヤされ、ついつい横柄な態度を取り、一方で下手くそな演技しかできない大女優が大勢いる。
 高峰秀子はそういう人々とは一切異なっている。5歳でこの映画の世界に無理やり入り、その後半世紀、ずっと第一線で活躍し続け、有名であり続けた。なにがそうさせていたのか?
 著者はその理由を、“自己の客体化”ということばで表現している。自分で自分のことを俯瞰している。我を忘れるようなことはない。常にそこには冷静な自分がいる。「自分という人間を周囲の環境の中の単なる一パーツとして、もう一人の自分が遠くから冷静に見ている。」・・・高峰秀子がそのような思いでいる、ということを理解して彼女の出演している映画を観ると、さらにおもしろく感じるであろう。
 “客体化”ということばは高峰秀子を理解する上で重要なことばだ。高峰秀子はいつもどこか醒めている。

高峰秀子との仕事〈1〉初めての原稿依頼

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高峰秀子との仕事〈2〉忘れられないインタビュー

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