『ロング・グッドバイ』

 レイモンド・チャンドラーが造形した探偵、フィリップ・マーロウ。タフで力強く無駄口を叩かず、自分の主張を曲げない。相手に妥協しない。だから組織の中で生きていくことは難しい。それで独立した私立探偵をひとりでしている。仕事を選ぶからいつも金に困っている。しかし自分の生き方を変えることはしない。そういう生き方をしている私立探偵の系譜が文学史上には脈々と流れている。一般的に云って、このフィリップ・マーロウが出てくるような小説のジャンルを“ハードボイルド小説”と呼んでいる。今月はこのフィリップ・マーロウが活躍する小説、『ロング・グッドバイ』について考えてみようと思う。

 『ロング・グッドバイ』(レイモンド・チャンドラー 著)(村上春樹 訳)(早川文庫)(2010)


 なぜ、今になって本書、『ロング・グッドバイ』について書く気になったか。それは最近NHKで放映された『ロング・グッドバイ』に拠る処が大きい。というか、執筆子はこのTV版『ロング・グッドバイ』にかなり参ってしまったのだ。このドラマを観て、何十年ぶりに文庫本を手に取った次第である。邦題が『長いお別れ』から『ロング・グッドバイ』と変わっていたことに気づいたのもこのドラマを観てからである。ドラマについては、後述する。
 本書は、原作が1953年にアメリカで出版され、日本語訳も同年に発行されている。そのときは『長いお別れ』という邦題であるが、近年の村上春樹訳本では、題名を日本語にせず、そのまま『ロング・グッドバイ』にして発行している。
 本書には訳者のあとがきとして「準古典としての『ロング・グッドバイ』」という訳者の村上春樹の文章があり、原作者のレイモンド・チャンドラーや主人公のフィリップ・マーロウのこと、さらに訳してみて難しかった処など、とても丁寧な解説が載っている。これはレイモンド・チャンドラーフィリップ・マーロウ、そして『ロング・グッドバイ』に関する論文といっていいだろう。
 『ロング・グッドバイ』はハードボイルド小説である、と云われている。一般的に云ってこの“ハードボイルド”という言葉の定義が難しい。ハードボイルド=固茹で卵。生卵は掻き混ぜることができるが、固く茹でてしまうと卵は混ぜることができない。このことから転じて、客観的な表現をすることに努め、善悪や好悪など道徳的な批判を加えない文体を表するようになった。これ、わかりますか? つまり道徳的な批判を加えないということと混ぜることができない固茹で卵が日本人にはうまく繋がらないわけ。また「ハードボイルド」が文体を指している言葉なのか、それとも私立探偵が登場するジャンルの小説全般を表しているのかも、日本では曖昧な処がある。執筆子の理解では、ハードボイルドとは、その文体においても主観的な感情表現を一切省き、場面の描写と登場人物のせりふだけで成立している物語、というものだ。たぶんそれがハードボイルドに対する正しい認識だと思う。感情表現を省く、ということはすなわち、「報告書」なのだ。報告書としてフィクションを綴っている物語こそ、“ハードボイルド”と云えるのだと思う。その定義をもってこの『ロング・グッドバイ』に当てはめてみると、ちょっとハードボイルド小説とは云い難いのだ。主人公のフィリップ・マーロウに感情を語らせている。好き嫌いをマーロウは自分で語っている。
 ハードボイルド小説からは逸脱しているのだが、感情を表に出すことによって、フィリップ・マーロウという主人公の造形が深く表現され読者の心に入ってくる。本書の読者はマーロウが好きになる。一方的に好きになるのだ。そういう仕掛けになっている。
 本書では、この物語を離れて独立したフレーズとして引用されるような有名な文章が散りばめられている。さながらシェイクスピアのせりふのように。それが、村上春樹をして準古典と云わしめた証拠になるのであろう。たとえば、
 “さよならを言うのは、少しだけ死ぬことだ。”・・・・・このせりふなぞは、なんと人の心をくすぐることか。
 『ロング・グッドバイ』は男の友情の物語である。フィリップ・マーロウとテリー・レノックスというふたりの男の友情が軸になっている。テリー・レノックスが殺人をするはずがない、と断固とした確信をマーロウは持っている。マーロウは最初から最後まで、ぶれずにそう信じている。執筆子としては、作者のレイモンド・チャンドラーが、このぶれない信念を最初のヒントにしてこの物語を紡いでいったのではないか、と思うのだ。
 誰も信じていないが犯人と思われている男が実は殺人なんか犯していない、と揺るぎなく信じ続け、別の犯人に辿り着き、最終的に事件を解決してしまう話。
 ・・・・・このプロットが始まりだ。
 テレビドラマになった『ロング・グッドバイ』。原作が発表された1950年代こそ同じ年代にしているが、舞台をロサンジェルスから日本の東京に移し、登場人物もすべて日本人にリライトして制作された。主人公のフィリップ・マーロウは増沢磐二という名前になっており、浅野忠信が演じている。この浅野忠信の増沢磐二がいい。すばらしく良い。理屈で生きているフィリップ・マーロウ(増沢磐二)だが、たまには情にほだされてしまうフィリップ・マーロウの姿をうまく表現している。テリー・レノックス(=原田保)(綾野剛)とバーでギムレットを手にして、語り合っている場面がいい。ふたりの役者の絡みがたまらなく素敵だった。
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 『ロング・グッドバイ』を原作にした映画があった。1974年のアメリカ映画であるが、これはまったく時間の無駄であった。駄作もいいとこ。物語に深みがない。テリー・レノックスを欲望のままに生きる不誠実な悪人にしてしまっている。準主役とも云うべき愛しのヒロイン、アイリーン・ウェイドは不倫をして自分の亭主を死に追いやる愚かな女として描かれ、最後まで観てしまった自分を呪った。そもそもテリーが変ってしまったのは戦争に従軍して九死に一生を得たからである、という物語の本質ともいうべき部分を全面カットして、単なる痴情のもつれに矮小化してしまった、まったくの失敗作である。70年代の野放図な世相を反映している、と云われればそのとおりなのだが。主人公のフィリップ・マーロウだけが、孤高で禁欲的な態度を保っている。この映画で唯一認めることができるのはその部分だけだ。