『「ゴジラ」とわが映画人生』

 初代「ゴジラ」は、1954年(昭和29年)に公開された。執筆子はむろん、封切り時の「ゴジラ」をリアルには観ていない。そしてこの「ゴジラ」はなんと、なんと、敗戦からたったの9年しか経っていない時の映画なのだ。この映画は、みなさんも何度も何度も観ていると思う。執筆子ももう何度観たかわからない。そして充分に大人になったある時、この映画を観ていて思った。“敗戦からたった9年しか経っていないのに、なんと東京の近代的なことか。”ということだった。東京の街は見事に復興していて、ビルが立ち並んでいる。その中で電車を蹴飛ばし、戦闘機をはたき落とし、腕で建物をぶち壊す無敵のゴジラの何と神々しかったことか。そしてなんと東京も街が精緻にできていることか。
 「ゴジラ」を抜きに本多猪四郎は語ることはできない。本多猪四郎には常にこの「ゴジラ」を肩書きにして語られる。偉大な「ゴジラ」の最初の監督としての名誉を与えられている。

 『「ゴジラ」とわが映画人生』(本多猪四郎 著)
(株式会社ワニ・プラス)(ワニブックス新書)(2010)

 
本書は本多猪四郎へのインタビュー形式で彼の映画人生を振り返ったものである。いきなりで恐縮なのだが、あまりにも語りをそのまま載せている印象で、とても読みにくい。これが本書の最初の読後感だった。本多猪四郎の肉声を聞けば、すぐにわかることでもそれをそのまま活字にしてその文章を読むとなると、とても理解することがむずかしかった。たとえば、以下のような文章。
「・・・やっぱりぼくの場合は、映画というのは娯楽であり、その娯楽のなかで、人生の生き方に共感をもつというかたちだね。だから、芸術というのはどういうものだとか、芸術映画を作りたいっていうのは、どちらかというと、ない方だね。なかったと言って好いと思う。」・・・聞けば、よくわかるが読むとなるとなかなか難しいのだ。

 本多猪四郎は三度も招集され、兵隊になっている。除隊になって職場に戻ってみると後輩の方が自分より職責が上になっていた。さぞ、複雑で難しいことであったろう。本多猪四郎には常に謙虚さがイメージとして存在するのだ。黒澤明監督との関係も面白い。映画の世界に入ったのは本多猪四郎の方が先であるが、監督になったのは黒澤の方が早く、黒澤の「野良犬」(1949・S24)の監督助手を務め、三船敏郎の吹き替えとなって闇市を歩き回る刑事の足となり背中を演じた。さらに時代は流れ、1979(S54)には「影武者」の演出チーフ。1984(S59)の「乱」で演出補佐。1990(H2)の「八月の狂詩曲」で演出補佐。1992(H4)「まあだだよ」で演出補佐を務めている。いずれも監督は黒澤明黒澤明は1910年(明治43年)生まれであり、本多猪四郎は1911年(明治44年)生まれ。同世代なのだ。

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 本多は「ゴジラ」を皮切りにその後も「ゴジラ」シリーズの監督をしている。読者諸子諸兄もご存じのとおり、「ゴジラ」シリーズはその後、回を重ねるごとに観客層が低年齢化してきた。一時は完全に子ども映画となっているが、その時にも本多はこの「ゴジラ」シリーズを作るときに心掛けていたことがある、というそれが、以下の文章だ。
「大人が観ても一応は納得できるかたちのものでないと子供の方が先に見抜いちゃうというのがぼくの考え方。
 純粋にスクリーンに向かうと、大人が考えているよりも子供の方が作者の態度を見抜いてしまう・・・」
 そのとおりだ。子どもは自分たちに媚びていることがわかった途端に愛想を尽かす。

 本多猪四郎は、常に観客の立場で映画を作る。自分の考えていることが観客と一体になっていることを確認しながら、キャメラを廻している。自分の主張を表現し、それを理解しない人は自分の映画の観客になってもらわなくても構わない、という監督とは対極にある監督なのだ。まずは観客ありきの映画を作る作家が本多猪四郎なのだ。