『マクベス』(シェイクスピア)

第13回 黒澤明生誕100年記念(年が明けてもまだまだ続くよ編)
−映画の原作にあたる(その6)−

 あけましておめでとうございます。
 さて、小欄も2年目に突入しました。そして、“黒澤明生誕100年記念”は9回目を迎えます。年が明けてもまだ続けることをどうかお赦しください。“映画の原作にあたる”シリーズもいよいよ6回目となり、ついに満を持して「沙翁」=「シェイクスピア」に登場を願いました。
 ご挨拶はここまでとします。
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 黒澤明の映画で明快にシェイクスピアが原作になっている作品はふたつある。
 『蜘蛛巣城』(昭和32年(1957))と『乱』(昭和60年(1985))の2本だ。前者の『蜘蛛巣城』の原作は『マクベス』であり、後者は『リア王』である。
 今号では、『マクベス』=『蜘蛛巣城』を扱うことにする。
 『マクベス』は最も邦訳の種類が多いテキストのひとつであろう。
 すぐ手に入る文庫版でも以下の5点ある。
 『マクベス福田恒存訳(1969)新潮文庫(2010第83刷)
 『マクベス』松岡和子訳(1996)ちくま文庫(2007第7刷)
 『マクベス木下順二訳(1997)岩波文庫(2010第13刷)
 『マクベス安西徹雄訳(2008)光文社古典新訳文庫
 『新訳 マクベス河合祥一郎訳(2009)角川文庫

 以上の文庫5点に加えて、
 『マクベス小田島雄志訳(1983)白水Uブック(新書版)
を入れた。このテキストは現在「マクベス」を上演する劇団が最も多く採用している訳であろうと思われる。
 小田島版を含めて、以上6点の『マクベス』を読み比べてみた。これに映画の『蜘蛛巣城』の脚本も含めると7本の『マクベス』になるわけだ。
 子供の頃(筆者が中学生くらい)は、シェイクスピアの訳と云えば、福田版だったような覚えがある。青年になると小田島版が出た。おそらく英語で韻を踏んだ洒落になっているであろう道化役のせりふを日本語でも駄洒落で書いてしまっている。これはすごいな、と思いながらこの小田島版を読んだ記憶がある。最近は松岡版を底本にした「マクベス」の上演も多くなった。木下版はさすが巨匠木下順二。とてもきれいな文章に仕上がっている。安西版は本書が彼の絶筆になった。彼は英文学者であるが、多くの芝居に携わる演劇人でもあった。そして河合版はまさにひとつの舞台の脚本として書かれている。彼も英文学者にして演劇人である。
 いずれにしても6点とも錚々たる顔ぶれの『マクベス』であることは間違いがない。
 とは云いつつも、実際に6点とも通読することは、結構たいへんだった。苦行に近いものがある。苦行ではあったが、読み比べる、という作業はいま思えば楽しかった。
 ここで、訳の違いを見てみたい。マクベスがダンカン王を短剣で殺して、自分の寝所に戻ってから独白する。マクベスは早くも王を殺したことを後悔しはじめている。
 福田版:大海の水を傾けても、この血をきれいに洗い流せはしまい?ええ、だめだ、のたうつ波も、この手をひたせば、紅(くれない)一色、緑の大海原もたちまち朱(あけ)と染まろう。
 小田島版:大ネプチューンの支配する大洋の水すべてを傾ければ、この手から血を洗い落とせるか?いや、この手がむしろ見わたすかぎり波また波の大海原を朱に染め、緑を真紅に一変させるだろう。
 松岡版:ネプチューンが司る大海原の水を一滴残らず使えば、この手から血をきれいに洗い流せるか?駄目だ、逆にこの手が、七つの海を朱(あけ)に染め、青い海原を真紅に変えるだろう。
 木下版:みなぎりわたる大海原の海の水ならこの血をきれいに洗ってくれるか?いいや、この手のほうが逆に、うねりにうねる大海の水を朱(あけ)に染めて、あの青さを赤一色(ひといろ)に変えてしまうだろう。
 安西版:大海原の大波のことごとくを注ぎつくせば、この血をこの手から洗い清めることができようか?いいや、逆にこの手が茫洋たる大海を深紅に染めて、緑の海原を朱一色に変えてしまうに違いあるまい。
 河合版:偉大なるネプチューンの大海の水を使い切れば、この手から血を洗い落とせるか?いや、この手はむしろ大海原を朱に染め、青を真っ赤にしてしまうだろう。

 「赤」を意味する言葉が2度出てくるが、それを「朱」「紅」「赤」などの違った言葉で表現しているのはもとが「incarnadine」と「red」と違った単語であるからだ。それぞれ6者が自分の工夫でどの言葉を使用しているか、ということを比べるのはとてもおもしろく興味深い。また、このシェイクスピアの持つ誇大な表現がたまらなく素晴らしい。血糊が付いた自分の手を海で洗っても手はきれいにならず、逆に海が血で染まる、とはなんという想像力なのだろう。
 映画『蜘蛛巣城』は舞台を日本の戦国時代に移し換えている。マクベスは鷲津武時という名前であり、むろん三船敏郎が演じている。マクベス夫人は浅茅という名で山田五十鈴だ。『蜘蛛巣城』では、原作の『マクベス』以上にマクベス夫人=浅茅に比重がかかっている。浅茅はすべてを躊躇する武時を叱咤激励し、武時の軍師役になって老婆に身をやつした物の怪の予言通りにことを運ぼうとする。『マクベス』において陰謀を実行に移す作業はまだ夫婦共同作業的雰囲気が色濃い。そしてこの浅茅(=マクベス夫人)は山田五十鈴だからできる役であろう。いずれにしてもこの『蜘蛛巣城』は三船と山田五十鈴しかあり得ない黒澤映画なのである。武者姿で馬を自由自在に操る三船の格好良さは無類である。富士山麓に巨大な砦(=蜘蛛巣城)のセットにも目を見張るが、この映画もやはり“三船の大きさ”で見せている映画であるのだ。『マクベス』が曖昧なままにしていた部分も『蜘蛛巣城』ではきっちり説明されている。
 マクベスが盟友であるバンクォーをなぜ暗殺するか、は戯曲では明解に説明されておらず、読者ないし観客の想像に任されている。おそらく魔女の秘密を知っているバンクォーを殺さないとマクベスは安心できない、という処が暗殺の理由であろうと思うが、『蜘蛛巣城』では、浅茅の懐妊というとてもわかりやすい理由を作っている。王位を簒奪した子のない鷲津武時は、三木義明(=バンクォー)の息子を養子にして王位を継がせようとする。それが、物の怪の予言でもある。しかし夫人の浅茅が身篭もった。その途端に三木義明父子が邪魔者になる。映画でのこのあたりの運びはみごとだ。
 マクベスはダンカン王を殺した時から苦しむ。戯曲ではマクベスは安心を得たいが為に次々と殺戮を重ねていくが、結局は死が一番の安らぎであった、ということだ。
 一方の映画では、鷲津武時は苦しむがそれは権力を維持するための苦悩である、として表現されている。武時は領主都築国春を殺しても暗殺それ自体に苦しみおののかない。それは映画のラストシーンによく表れている。大量の矢が武時に向かって放たれる、あの有名なシーンである。あの場面で武時はあくまでも生に執着している。死ぬまで権力にしがみつこうととしている。しかしながら、戯曲ではマクベスが殺される場面は書かれていない。魔女たちの予言が本当だった、と絶望して舞台からそでに下がる。そしてその次の最終場面はマクベスが殺され、勝者が勝利を寿ぐ場面である。
 『マクベス』では、マクベスの死にはあまり意味がない。マクベスの苦悩こそこの戯曲の本質である。『マクベス』の主役はむしろマクベスを唆し続けた魔女たちではないか、とすら思う。しかし『蜘蛛巣城』では武時の死の場面こそがクライマックスなのだ。そして明確に主役は鷲津武時である。彼の権力欲がすべてなのだ。