『リア王』(シェイクスピア)

第14回 黒澤明生誕100年記念(そろそろ・・・?編)−映画の原作にあたる(その7)−

 寒い日が続きます。外は寒いので家の中で読書に明け暮れる日々です。冬は読書の季節ですね。
 さて、今月も小欄は先月に引き続き「沙翁」=「シェイクスピア」でいきます。
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 黒澤明渾身の大作、『乱』(昭和60年(1985))の原作はまぎれもなく『リア王』である。
 老王と三人の子供たちの物語。末の子は老王にいい返事をしなかったばかりに追放の憂き目に遭う。上のふたりは領地を得た途端、老王に辛くあたる。一番上の子の城から追い出され、次の子の城からも追放され、そして放浪する老王。本当の愛情は末の子供が持っていた。老王は後悔し、そして狂う。老王を追放した上と次の子に争いが起こり、国は内乱状態に。末の子が助けに来る。上の子たちは醜い争いの果てに死ぬ。しかし末の子も殺されてしまう。その遺体に縋りつき狂死する老王。かくして王家の血筋は絶えてしまう。
 沙翁も黒澤もあらすじを記載すれば上記の如し。違いを云えば、王の子たちは沙翁では女性であるが、黒澤は男たちであること、そしてむろん場所がイングランドと日本の違いは当然の違いである。
 『リア王』野島秀勝訳(2000)岩波文庫(2010第9刷)
 前回ご紹介した『マクベス』同様、この『リア王』も訳はたくさんあるが、前号のように訳の違いを見ることはしないため今回紹介するのはこの一点のみである。
 『リア王』は『マクベス』『オセロ』『ハムレット』と並んで、主要な登場人物が全員死んでしまうシェイクスピアの四大悲劇のひとつである。しかし他の3つの作品に比べると日本での上演は少ないように感じる。それはなぜか。
 思うに内容が難しいことが主な原因ではないか。シェイクスピアの戯曲の最大の特徴はその膨大なせりふにある。せりふの洪水、せりふの大嵐なのだ。そして特に『リア王』ではそのせりふが際だって詩的なのである。美しいせりふでもひとたび翻訳されてしまえば、意味はそのままでも、聞いていて、たぶんそれ以上でもそれ以下でもなくなってしまう。原文の英語ではとても滑らかに美しく聞こえるものが、日本語では難解な論文のようなものに化けてしまうのだ。これは翻訳の限界であろう。せりふがむずかしいのだ。
 岩波文庫の『リア王』をなぜ紹介したか、と云えば本書の訳者がそういう翻訳の限界を承知しており、各頁の下部に詳細な注を付しているからである。この注がシェイクスピアの英語と翻訳した日本語の橋渡しをしてくれる。が、それでも充分ではないのだ。シェイクスピアのせりふの洪水が他の作品では大いに感心して聞けるのに、『リア王』はこの岩波を読んだあとでもやっぱり冗長に感じてしまうのだ。
 閑話休題
 『リア王』はむろん駄作ではない。人間の本性をえぐり出している素晴らしい作品である。老醜をテーマにし、利己主義を表現している。現代にも通用するテーマであり、いまを生きる我々にとってもすこぶる示唆に富んだ素晴らしい作品である。
 『リア王』は、リア王家の滅亡とともに家臣のグロスター伯家の崩壊という見事な脇筋がある。妾腹の子が父親と嫡子を騙し、家を乗っ取る、という筋がリア王家の脇に存在している。リア王家が徐々に分裂し争い狂気へと走っていく、そのさまと軌跡を同じくしてグロスター伯一家も壊れていく。しかし注目すべきはこのグロスター伯家の諍いの結末であろう。お家を乗っ取ろうと企んだ妾腹は最後に腹違いの嫡子に殺される。かくしてグロスター家は危機一髪を免れ、幸せに存続する。本筋のリア王家は滅亡するにもかかわらず。『リア王』の面白い部分である。
 もうひとつ『リア王』で面白いのは、道化の存在であろう。日本風に云えば道化は太鼓持ちであろうか。芸をもって主君に仕える。ただひたすら主人を持ち上げることが仕事の太鼓持ちと違い、道化とはずけずけと直言もできてしまうニュートラルな立場だ。『リア王』の前半は、老王とこの道化の芝居でもある。ところが、第三幕第六場の途中で「じゃあ、おいらはお昼どきに寝るとしよう」というせりふを吐いて退場して、以後この道化がまったく登場しなくなる。登場しないことを誰も気にしない。むろん老王も。家臣たちも。敵対者も。自然に登場しなくなることが実はとても不自然なのである。道化が登場しなくなるその時を同じくしてリア王自身が狂ってくる。ふだん気の触れたような行動を取ることが許される道化は主君が本当に気が触れるとそこにはもう居場所がなくなる、という訳であろうか。
 さて、黒澤の『乱』。こちらはすべてを仕組んだのは長男・太郎の奥方である楓の方なのだ。彼女は老王・一文字秀虎に滅ぼされた一族の姫であり、一文字家が居城にしている一の城はもともと彼女の一族の城であった。
 彼女が一太刀で殺される直前の「親兄弟の恨みのこもったこの城が燃え、一文字家が亡びる様を、わらわはこの眼で見たかった!」というせりふがすべての原因であり結末である。自らが滅ぼした一族の娘を長男の嫁にするか?! という疑問は残るにしても、話としては『リア王』よりもこちらの方がむしろよくできているように思える。この楓の方に扮した原田美枝子はもしかすると『蜘蛛巣城』での浅茅(マクベス夫人)に扮した山田五十鈴を超えたかもしれない。
 この『乱』での私見をひとつ。やはり主人公の一文字秀虎は、三船敏郎が演じるべきだった。三船の大きさと狂気がこの役にはなくてはならなかった。しかしながらこの頃の三船は、“世界のミフネ”という存在になっており、巨匠・黒澤明とは既に「両雄並び立たず」ということなのであろうか。どうやら『乱』への直接のオファーはなかったようだ。それでも三船の老王=一文字秀虎を観たかった。

 どうやら、そろそろ黒澤明生誕100年記念に幕を引く時がきたような気がする。

リア王 (岩波文庫)

リア王 (岩波文庫)