『演出家の仕事』(栗山民也)

 歌舞伎には、演出家という立場のスタッフは存在しない。存在したとしてもそれは新作歌舞伎の場合であって、古典とされるような舞台にはいない。型とせりふと衣装とがきっちり決まっているものに対して演出家は必要ないわけだ。「勧進帳」はあの芝居だからみんな観に行く。もし別の解釈で別の衣装で別のせりふの「勧進帳」であったならば、それを歌舞伎というジャンルでは観たくはない。
 一方で、演劇にはそれぞれ考え方が必要だ。解釈ひとつで如何ようにも変化する世界がある。同じ脚本でも、解釈の違いによってまったく違う芝居が生まれる。“解釈”と云って、よくわからなければ、“方向づけ”とでも云い直せばよいのだろうか。芝居をひとつの方向に導いていくのが演出家の仕事であろうか。
 その演出家が自分の仕事についてのことを一冊の書物に著した。

 『演出家の仕事』(栗山民也 著)(岩波新書)(2007)

 日本を代表する演出家・栗山民也氏の著作である。栗山氏は昨年惜しまれて亡くなった井上ひさし氏の戯曲を多く手がけた演出家として知られている。
 本書は、まず「聞く力」について述べている。冒頭、“演出に必要なものは何か?”と問われれば、“何を見て、何を聞くのか”と答える、と書かれている。その文章を緒にして、そこから著者は見ることと聞くことの大切さを説く。特に“聞くこと”の大切さをとことん強調する。曰く「過去に忘却されていった死者たちのあらゆる声に耳をすまし、それを現在へどうつなげていくのか、私たちは舞台をつくり、観客のみなさんにそれを手渡していく。」また曰く「聞く力とは、単に何かが起こって時の音を聞くことだけではなく、その裏で支える人間の心の動きを聞くことが大事」と云う。相手の声を聞き、死者の声を聞こうとし、人の心の動きを聞く。相手の声を聞かずして次の言葉は出ない。過去を振り返らずして現在のことはわからない。相手の微妙な声を聞かずして、その心はわからない。つまり、聞かなければ何も始まらないのだ。
 次に“戯曲を読む”ことについて書かれている。演出家が戯曲を読むことは当たり前なのだが、その戯曲を演出家はどんな風に読んでいるか、を詳細に記載している。はじめに戯曲を受け取って最初に読むことから始まって、上演までの長い期間、その戯曲に向き合い、どのように読んでいくか、興味深い部分ではあるが、つまりは“繰り返し読む”ということに尽きるわけだ。演劇のおおもとは戯曲にあるのだから。
 さらに、役者たちと稽古場で過ごす日々について語っている。「本読み」、「立ち稽古」「小返し稽古」、「通し稽古」と進んで、本番を迎える。作ったり壊したりすることで徐々に芝居ができあがっていく。この部分は緊張感のある文章によって、読者である我々を稽古場に誘っている。
 本書の一番の圧巻は何といっても、第4章の「時代と記憶に向き合う」であろう。著者のこれまで出会った、脚本家や演出家、そして役者について語りつつ、演劇とは、演出とは何か、という命題に答えている。例えば井上ひさし氏の戯曲と葛藤している時のことを回想しつつ、言葉の持つ力の大きさを訴える。
 「時代と記憶」に向き合う、とはすなわち簡単に云えば、「過去を知る」ということなのだろう。歴史を学び、過去を知ることが、「時代と記憶」に向き合うことなのだ。具体的に云えば、たとえば戦争について知ることである。ヒロシマでも沖縄でも、アウシュヴィッツでも、戦争を知ることによって我々は過去と対話し、未来を切り開いていく。その手段が演劇である、と著者は云っているように感じられる。
 いづれにしても、芝居好きには興味深い書籍である。演出家および演出のことがすこしはわかれば、これからの観劇もより楽しくなるに違いない。
 最後に本書には「演出家のブックリスト」と銘打って、著者である栗山民也氏が夢中になって読んだ本の一覧表が掲載されている。およそその人のことを知ろうと思えば、本棚を見ればよい、というのは本当で、この一覧表を見れば、栗山氏がどんな精神形成をしてきたか、どんな思想遍歴をしたか、ということがよくわかる。したがって、そういう意味で、読書リストは、その人の裏の裏まで見せてしまうことに他ならないことなので、それを公表することはとても勇気のいることだと思う。我々読者は興味があれば、その中の一冊を手にして、栗山氏の森の中に分け入っていくのもひとつの読書の方法であろうか。

演出家の仕事 (岩波新書)

演出家の仕事 (岩波新書)