『男ありて 志村喬の世界』

 澤地久枝が名優、志村喬を描いている本を見つけた。新刊はもうないと思う。古本屋で見つけた。しかも著者サイン本。
 志村喬。1905年(明治38年)生まれ。1982年(昭和57年)逝去。戦前から活躍する昭和を代表する名優である。
 志村喬の役者人生をノンフィクションライターである澤地久枝が描いた作品。

『男ありて 志村喬の世界』(澤地久枝 著)(1994年)(文藝春秋社)

男ありて―志村喬の世界

男ありて―志村喬の世界

 写真がふんだんに挿入されている本。どの写真にも志村喬の特徴ある顔がある。若いときから晩年のものまで、志村喬のたくさんの写真。顔はその人の人となりを語る。志村の顔を見ていると、そういう思いがひしひしと湧いてくる。どれもいい顔をしているのだ。
 澤地久枝の文章も素晴らしい。抑制が効いていて、普段は口数の少ない志村の姿をうまく表現できていると思う。

 志村喬と云えば、黒澤明監督であり、相棒は三船敏郎である。しかし、本書はそのことについては読者が思っているほどは触れていない。それでも黒澤と三船と3人で作った映画についての記述は全体に占める割合から云ってもたいへんな量であるのだが、それはたぶん黒澤と三船とともにある志村を期待する読者からすると、やはり少なく感じるだろう。

 筆者の澤地久枝は、志村喬が出演している黒澤監督の映画の中で最も志村の名演が光っている、と思う作品として、『醜聞 スキャンダル』を挙げている。

<あの頃映画> 醜聞(スキャンダル) [DVD]

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 確かに、この『醜聞 スキャンダル』では主役は三船敏郎山口淑子でありながら、志村の演じる堕落した弁護士を中心に描かれ、そして志村の演技がすばらしい。
 なぜ、この作品がナンバー1なのか? その理由は、澤地久枝の個人的な問題に拠るところが大きい。この作品の中で志村が演じている蛭田という名の弁護士は、三船と山口淑子演じる画家と歌い手の代理人となるが、彼らが名誉毀損で訴えた雑誌社と裏で手を結んでしまっている。その理由は病気の娘の治療費を得るため、ということだが、弁護士として職業倫理に反しており、最もやってはいけないことを蛭田はしてしまったのだ。しかし最後に彼は翻意して、自分の悪事を公表することによって、自分の裁判に勝つ、という道を選んだ。そして澤地はこのような志村が演じる蛭田という弁護士の姿を自分の父親に重ねた。“もし父がこの映画を見たら、男泣きしただろうと思う”と書いている。また、“負けた人間の一人として、蛭田の転落と翻身は、父の心を打たずにはおかなかったと思う。”とまで云いきっている。澤地の父親も蛭田と似たような人生を送ってしまった。作家とは、世の中のすべての事象について、その由来や典型を考える。そしてそれらを自分のことに一旦置き換える。その上でそれを文章にしていく。この澤地がこの『醜聞 スキャンダル』を観て、感じたこと考えたことは、彼女の父親のことであり、それを確認すれば自ずと、この映画が志村の出演している黒澤映画で一番になったのだ。作家の仕事は「置き換え」であり、「感情移入」なのだ。

 閑話休題
 もともと澤地久枝向田邦子と親しい間柄の友人だった。映画が斜陽となり、テレビに活躍の場をシフトしていったとき、テレビドラマの優れた書き手としての向田邦子が脚本を書いたドラマに志村は数多く出演するようになる。それから向田邦子と親しくなり、さらに澤地久枝とも交流を重ねるようになる。澤地はノンフィクションライターとして、志村のこと、そして彼のよき伴侶である政子のことを書き残したい、という作家の本能が本書を生んだ。
 執筆子は、志村のこと、妻の政子のことについて、本書を読んで初めて知ることが多かった。今まで、志村喬のことは黒澤明、という圧倒的なフィルターを通してしか接していなかったから、それもそのはずなのである。
 黒澤や三船のものを読むとき、必ず出てくるのは、志村夫妻の面倒見の良さである。役者仲間からおじちゃん、おばちゃん、と慕われ、志村の家がたまり場になっていた。・・・・・ということは、誰もが証言していることだ。しかし、たとえば政子との結婚のいきさつとか京都での新婚生活とか、それから、その京都時代に特高警察に捕まったこと。さらに、志村が捕まったときに志村は政子に、月形竜之介に相談せよ、と書き置いたこと。そして月形はしっかり約束を果たし、志村の留守宅を守ったこと、などが感動的に書かれており、すべてが初めて聞くことばかりであった。これらのエピソードは、つまり、黒澤と三船のふたりと出会う前の出来事だから、こちらは何も知らなかったのである。

 黒澤との出会い。『姿三四郎』(1943年(S18))に出演してから、『七人の侍』(1953年(S28年))まで、この10年間、志村の40歳代は、黒澤映画一色と云っても過言ではない。そしてその後も黒澤映画には1980年(S55)の『影武者』までほぼ常に出演するが、二度と主役および主役級の役にはついていない。これ以降の黒澤映画(たとえば『用心棒』あるいは『赤ひげ』)では、はっきり云えば志村でなくとも、ほかの役者でもできる役ばかりであった。そしてその肝心の志村は、自分の最も円熟した時期は黒澤とのこの10年間ではなく、『七人の侍』以後の10年間。すなわち自身の50歳代であった、と晩年、澤地に云ったという。つまり、これはわれわれ、日本映画ファン、あるいは志村喬を贔屓にしている者からすると、ちょっとばかり驚くことなのだ。こちらは勝手に志村の最高峰は「渡邊勘治」(『生きる』)か、「島田勘兵衛」(『七人の侍』)と勝手に思っている。しかし、本人の志村は、それでもなお、その後の10年間が自分の最高の時期だ、と云っているのだ。
 本書でもたとえば、『男ありて』(1955年(S30))(注:本書のタイトルも『男ありて』)や『暴力の街』(1955年(S30))。あるいは『花の大障碍』(1959年(S34))について、志村が好きな作品として紹介されている。

 実はここでも三船敏郎と同じことが云えるのだ。あの大きな世界ミフネでさえ、巨大な黒澤明の網の中から出られずに(本人もわれわれ観客も)あえいでいる。そして志村喬でも同じことが起こっている。われわれは黒澤映画以外の志村喬をあまりにも知らなさすぎやしないか。われわれは、もっともっとこの「志村喬」という希代の名優のことを観ていかないといけない。・・・・・これが今回の結論なのである。