『シェイクスピア −人生劇場の達人−』

 河合祥一郎シェイクスピアを研究している大学の先生だ。彼はわかりやすい言葉で次々とシェイクスピアの入門書を書き発行しているが、今回俎上に乗せる本は、まったくシェイクスピアを知らない人向け、というものではなく、少なくともシェイクスピアの四大悲劇といくつかの喜劇を観ている、という人向けの本のような気がする。シェイクスピアの生涯を辿り、彼が生きた時代を理解して、作品が表現している人間の喜怒哀楽を丁寧に解説してくれる。そして最終章ではシェイクスピアの戯曲から生き方や哲学を解析してみせている。

シェイクスピア −人生劇場の達人−』(河合祥一郎 著)(2016年)(中央公論新社
中公新書

 新書は、専門的な問題を一般の人向けに解説する書籍。という定義だと理解しているが、本書はまさにその定義どおりの解説書になっている。とにかくわかりやすい。
 本文が7章ある本書を大きく3つのテーマに分けるとしたら、1章から3章までがシェイクスピアの生涯を辿る道のり。4章から6章は、シェイクスピアの作品をうまく解説している内容であり、最終の7章は「シェイクスピアの哲学」というタイトルでシェイクスピアが影響を受けたであろう思想や哲学を戯曲のセリフから分析し解説している。

 最初のシェイクスピアの生涯をみたとき、本書は単なる事実と推測の羅列に終わらず、誰と出会い、どんなことを考えていたかを推測し、彼の戯曲を分析する後半の内容につなげている。さらにシェイクスピアが生きていた時代を世界規模で俯瞰してみる。シェイクスピアの活躍した時代はエリザベス朝と重なっているのは皆に周知のことであるが、そのエリザベス朝において、当時世界最強とされていたスベインの無敵艦隊を打ち破ったこと、そして遙か極東の日本においては信長秀吉家康の時代であることは、あらためて指摘されないと気づかない。初めて日本に来たイギリス人は、三浦按針の日本名で知られたウィリアム・アダムスであり、彼はシェイクスピアと同い年であった。しかもファーストネームも同じウィリアムである。イギリスのウィリアムは女王陛下のために芝居をつくり、女王のために尽くした。日本に来たウィリアムは徳川家康のために船をつくり外交顧問として活躍していた。なんだか、とても興味深い歴史の偶然なのである。いい話だ。

 シェイクスピア演劇は日本の狂言と似ている。まず、精巧なセットではない。また上演する舞台には幕がない。太郎冠者は舞台上を一周りして田舎から都に上る。同じようにシェイクスピアの登場人物は舞台を一周りして宮廷から鬱蒼とした森に辿り着く。ひとつの舞台で時間と空間を飛び越えてしまう。そこでは役者の力量も試されるが、観客の想像力も柔軟にしておかなくては芝居の進行についていけなくなる。そこでは自由に時と場所を移動することができるので、自由な発想が許される。『オセロ』では舞台はベネチアからあっという間にキプロスに移動する。近代演劇では舞台がひとつのセットでおこなわれることが多いので、場所の制約はシェイクスピア演劇とは比べられない。とは云いつつも、現代に生きるわれわれは、このような舞台上においてひとつのセットで、登場人物が入れ替わり立ち替わり出入りして進行していく芝居に慣れており、舞台演劇と云えば、そういうスタイルを思い浮かべるのである。今ではシェイクスピア演劇が異端と考えてよさそうだ。制約が多いほうが濃密な演劇になる、と思う人は多いだろう。この観点から演劇論を試みる書物は多い。

 シェイクスピアの悲劇と喜劇の違いは何か。本書ではそれを上手に表現している。すなわち“悲劇の世界を《To be,or not to be》(=あれかこれか)とするなら、喜劇のせかいは《To be and not to be》(=あれでもあり、これでもある)と規定できる”と云っている。悲劇ではひとりの主人公が悩み、彼の価値観が唯一正しいとされるが、喜劇ではたくさんの登場人物があれこれ能弁におしゃべりをして価値観もたくさん存在し、すべて肯定される。

 シェイクスピアの喜劇は混乱が生じてそれを解消していく物語だ。混乱は解消され大団円で芝居が終了する。その混乱の中で主人公は自分を見失う。そしてそれが収束して解消されていく過程で主人公は今までの殻を破り、新しい個性を手に入れる。
 一方の悲劇はどうか。主人公がもともと持っている強靭な精神は変化することなくそのままで最後には死が待っている。自分の価値観からはずれたものを否定するのであるが、それは逆に自分に災いが降り掛かってきてしまうのだ。主人公は神の替わりに判断する。それを“ヒューブリス”というらしい。シェイクスピアの悲劇の主人公は皆がそのように、「神に成り代わって運命を定めようとする傲慢さ」を持っている、という。ハムレットもオセローもマクベスもリヤ王も。皆、神に替わって正義を行おうとしてそして自滅するのだ。この4つのタイトルロールがシェイクスピアの四大悲劇に数えられる。

 同じように主人公が死んでしまう悲劇に『ロミオとジュリエット』があるが、これが四大悲劇に入らない理由は何かと云えば、ロミオもジュリエットもヒューブリスがないからだ。神に代わって運命を定めようとはしていない。彼らが死んでしまうのはまったく運が悪かったことに尽きる。

 シェイクスピア演劇、特に悲劇を考えるときに“世界劇場”という概念はとても重要である。『お気に召すまま』の有名なセリフ。「世界はすべて一つの舞台。男も女も、みな役者にすぎぬ。」というあれである。人生は芝居であり、人間は役者である。・・・ということは自分自身を客観視する必要がある。自分を客観視するとき人は冷静になる。自分自身を判断するのだ。そして死へと一直線に進んでしまうのだろう。世界劇場の概念は悲劇に結びついているのだ。

 最終章の「シェイクスピアの哲学」には「心の目で見る」という副題がついている。物事は一方からだけでみるのではない、いろいろな方向からみなければならないし、時には見えないものも心の目で見なければならないのだ。自分の心の中で真実だと思える何かを感じられなければ見たことにならない。事実は客観的なものであり、真実は主観的なもので、人によって違ってくる。つまり自分の人生は自分で切り拓くために自分の真実を感じなければならない。シェイクスピア演劇には、その真実を感じる方法がふんだんに盛り込まれている。

 演劇を通して真実をみつけるために、自分の中の「信じる力」を頼りにする。それが自分は何を信じるか、自分の信じる力で真実をみつけるのだ。それこそが演劇の大きな力であり、「信じる力」こそが人生を切り拓く手段であろう。これが今回の結論なのだ。