『シェイクスピア −人生劇場の達人−』

 現在、新国立劇場では12月22日まで、シェイクスピアの『ヘンリー四世』が上演されている。
 『ヘンリー四世』は1部と2部に分かれていて、長尺だからなかなか上演機会がない。また登場人物が多岐にわたっているので、役者を揃えなければならないし、主役級の役者が最低でも4人いなければ芝居が成立しない。だからこの企画は国家からの補助金が潤沢にあるであろう新国立劇場だからこそできる企画かもしれない。

『ヘンリー四世 第一部&第二部』(シェイクスピア 著)(小田島雄志 著)(1983年)
(白水∪ブックス)(白水社

ヘンリー四世 第1部

ヘンリー四世 第1部

 シェイクスピアの芝居は、主役がタイトルになっていることがとても多い。『マクベス』『リヤ王』『ロミオとジュリエット』『リチャード三世』・・・。この『ヘンリー四世』も、当のヘンリー四世は主役級には違いない。その息子の皇太子ヘンリーも主役であると思う。反乱軍の指導者であるヘンリー・パーシーもまた主役級だ。しかしながら、この『ヘンリー四世』においては、実は本当の主役は彼ら王の親子ではなくまた反乱軍の将軍でもない。真の主役は騎士「フォールスタッフ」なのだ。

 フォールスタッフは皇太子ヘンリーの悪い友達である。『ヘンリー四世』第一部では、前半、皇太子ヘンリーは父王ヘンリー四世の心配をよそに放蕩三昧。落語の与太郎。だめな若旦那役に徹している。そして放蕩王子ヘンリーをそそのかして悪いことを教えるのが悪友フォールスタッフ。しかしながら、このフォールスタッフ。なかなか含蓄のある台詞を吐くし、それが真実と思う瞬間を感じる。それは脚本を読んだだけではわからない。いい役者が演じてこそフォールスタッフの台詞が生きてくるし、フォールスタッフはいわゆる“キャラが立っている”役なのだ。・・・脚本を読むだけではなく、芝居を観ないとわからない役は、シェイクスピアの芝居でいえば、『オセロ』のイヤーゴがその代表と云えるが、このフォールスタッフはイヤーゴと双璧をなす役柄かもしれない。

 芝居の筋は簡単だ。イングランドに内乱が起こる。王は反乱軍を討伐すべく兵を集めるが、肝心の皇太子は行方不明。どこでどうしているのかわかない。皇太子ヘンリーはそのころフォールスタッフをはじめとした悪友たちと悪だくみと悪行三昧。しかし父王に呼ばれた皇太子はころりと簡単にいい皇太子に変身し、反乱軍を討伐し敵の大将を討ち取る。その間フォールスタッフはうまく立ち回り、何もやっていないにもかかわらず、強い武者としての名声を上げる(第1部)。反乱軍を討伐したヘンリー四世であるが、その残党が挙兵し、再び内乱が起こる。改心したはずの皇太子は、酒場で悪友たちとつまらないことをしている。そして父王の臨終。死の床についている父、ヘンリー四世の前で再びころりと改悛する皇太子。そして父ヘンリー四世の死。ヘンリー五世として即位。その席でフォールスタッフに引導を渡す新王。「私を昔のままの私だと思うと大間違いだぞ」(第2部)。

 ストーリーとして幼稚なほどわかりやすいが、単純すぎるその筋書きに半畳、つっこみ、だめだしを入れたくなるのはむしろ当然のことなのだ。あれだけ遊んでいた皇太子が反乱軍を前にころりと勇猛果敢な皇太子になる。しかもその後、ふたたび遊びほうける皇太子に逆戻り。いつも悩んでいる父王、ヘンリー四世。悩んでいるなら早いこと長男のヘンリーから皇太子の座を取り上げて次男に与えてしまえばいいのに。ヘンリー四世には長男ヘンリーの下に、トマス、ジョン、ハンフリー、と3人も弟王子たちが控えているのだ。
 とは云え、この『ヘンリー四世』はしぶとく名作として評判を21世紀になっても勝ち得ているのはなぜか。その最大の理由は、とりもなおさず、フォールスタッフにあるのだ。
 フォールスタッフ。愛しい太っちょおっちょこちょい嘘つき気弱打算的エログロ騎士。およそ人間の、人類の弱さと醜さをそのまま体現し、弱点という弱点をすべて身につけたこのフォールスタッフこそ、この芝居の核心なのだ。フォールスタッフを理解してはじめて『ヘンリー四世』が理解できるのである。

 “名誉ってなんだ? ことばだ。その名誉ってことばになにがある? 空気だ。結構な損得勘定じゃないか! その名誉を持っているのはだれだ? こないだ死んだやつだ。やつはそれにさわっているか? いるもんか。聞こえているか? いるもんか。じゃあ名誉って感じられないものか? そうだ、死んじまった人間にはな。じゃあ生きている人間には名誉も生きているのか? いるもんか。なんでだ? 世間の悪口屋が生かしておかんからだ。だからおれはそんなものはまっぴらだと云うんだ。名誉なんて墓石の紋章にすぎん。”(第5幕第2場)

 ・・・・・このせりふなぞ、フォールスタッフの性格をよく表している代表的なせりふだと思う。そして脚本で読んだだけではわかりにくい。というか、このせりふは抜粋しているので、前後に膨大なほかのせりふが控えている。読むときには集中力を欠き、飛ばしてしまう危険もある。しかしながら、いい役者がこのせりふを語るとき、われわれ観客を心が締め付けられるような共感と感動を与えられるのだ。

 この『ヘンリー四世』はフォールスタッフだけが素晴らしい。と云っていることにまあ、間違いはない。ただし、読み方を間違えてはいけない。
 この『ヘンリー四世』は皇太子ヘンリーの成長物語なのだ。そして初めは鏡のように同じ姿で向き合っているヘンリーとフォールスタッフは、いつしかその役目を変え、フォールスタッフはヘンリーの反面教師としての役割に変わっていくのである。実にヘンリーはフォールスタッフの良くない処を参考にして、王になるべく成長するのだ。

 シェイクスピアは『ヘンリー四世』でフォールスタッフをほぼ殺してしまう。しかしこの芝居でフォールスタッフの熱狂的なファンが黙っておらず、シェイクスピアは次作『ウィンザーの陽気な女房たち』に登場させた、という話だ。

 ちなみに、いま上演中の新国立劇場『ヘンリー四世』の配役。
 ヘンリー四世:中嶋しゅう/皇太子ヘンリー:涌井健治/フォールスタッフ:佐藤B作
 ・・・です。