『ミルワード先生のシェイクスピア講義』

上智大学の先生でイエズス会の神父でもあるピーター・ミルワード先生の授業がそのまま本になったような書物が出版された。
 第一部がピーター・ミルワード先生の講義録で、第二部が教え子であり訳者でもある橋本修一先生のシェイクスピア入門編とも云える教養講座になっている本。

『ミルワード先生のシェイクスピア講義』(ピーター・ミルワード 著)(橋本修一 訳)
(フィギュール彩)(彩流社)(2016年)

 ミルワード先生の専門はまさにシェイクスピア。そして本書ではシェイクスピアの悲劇に登場するヒロインたちについて考察している。
 第一講 ジュリエット(ロミオとジュリエット
 第二講 オフィーリア(ハムレット
 第三講 デズデモーナ(オセロ)
 第四講 マクベス夫人(マクベス
 第五講 コーデリアリア王

 ミルワード先生は、シェイクスピアの悲劇のヒロインたちを“超自然的な存在”という。
 すなわち、悲劇のヒロインたちは“すべてを超越した特別な存在”として描かれている、というのだが、実は執筆子には、その意味がよくわからない。この文章を読んだとき、なんとなく聖書というか、キリスト教的な匂いを嗅ぎ取った。ミルワード先生はイエズス会の神父さんである。
 読み進めていくうちに、シェイクスピアの戯曲には聖書からの引用や聖書の本歌取りがとても多い、ということがわかるのである。シェイクスピアを聖書の文言と対比した本に初めて出会った。王族にも貴族にも、一般民衆にも聖書のことばが普及していた、ということにあらためて驚く。日本人が超えられない大きくて分厚い壁を感じる。

 シェイクスピアの悲劇に登場するヒロインは、終始女性のままだ、という指摘がとても新鮮だった。つまり、シェイクスピアの喜劇に登場するヒロインたちは男装する。「十二夜」のヴァイオラ。「ヴェニスの商人」のポーシャ。「お気に召すまま」のロザリンド。
 ところが、ここに紹介される5つの悲劇のヒロインは、男装することはなく、登場してから、死んでしまうまで、ずっと女性のままなのだ。
 それは、なぜか? シェイクスピアの時代では、声変わり前の少年が女性を演じていた、という。つまり、ボーイッシュな女性こそ、最も登場させやすいキャラクターだった訳で、だからいわゆる喜劇というジャンルの作品群には、男装した女性がたくさん見られる、というからくりである。
 しかし、悲劇ではそうはいかない。ヒロインたちは主人公を支えながら、愛に生き、そして行動し、死んでいく。そこには騙りは必要ない。男装する理由はないのだ。
 ヒロインをしっかりと描くことで、主人公が浮かび上がり、そして人間の喜怒哀楽を表現し、人の心に染み込む芝居になるのだ。
 シェイクスピアが、没後400年経っても依然として世界中で上演されているのは、それが理由だ。人類の普遍的なテーマを扱っているからに他ならない。
 あらためてシェイクスピアの偉大さがよくわかり良書である。

ミルワード先生のシェイクスピア講義 (フィギュール彩)

ミルワード先生のシェイクスピア講義 (フィギュール彩)