『沈 黙』

 先月は上智大学の先生でイエズス会の神父でもあるピーター・ミルワード先生の本を紹介した。今月もイエズス会に関係のある本を紹介したいと思う。イエズス会宣教師の話。でもそれは小説なので、フィクション。しかしいたる処に史実どおりのこともちりばめている小説を紹介したい。そしていま、それを原作にした映画が劇場で上映されている。

『沈黙』(遠藤周作 著)(新潮社)(1976年(昭和41年))

 遠藤周作はクリスチャンであった。そして本書はクリスチャンである遠藤周作が終生、心の中で問うていた問題について書いた物語であった。すなわち、「神はなぜ黙っているのか」という疑問であり、これが本書の主題なのである。
 主(創造主=神)は慈悲深く、人々を苦しみから救ってくださる。しかし、日本の切支丹のことはお救いにならなかった。神は沈黙したままだった。そして、それはもしかしたら実は神は常に沈黙したままなのかもしれない、神がなにかをしてくれることなど今までもあったのだろうか、という疑念に信徒は苦しむことになったのかもしれない。そしてそれはさらに恐ろしい疑念となっていくのである。すなわち、神は本当に存在するのか。と心のどこかでおもってしまうことになるのだ。
 この物語によると、江戸時代に切支丹の弾圧において、幕府は信者のそういう疑念をうまく利用して、棄教を迫ったと云える。信者の心の中の迷いに乗じて棄教に持っていく。神の存在を疑うこと自体が神への冒涜であり、それはすでに疑うことによって、信者の資格はない、という論法で棄教させていく。
 また、幕府は宣教師=バテレンは処刑しない。バテレンを処刑すると、彼らを殉教者にしてしまい、ますます切支丹たちは信仰を深めていくことになる。拷問し処刑するのは、百姓の切支丹たち。それをしっかりバテレンに見せて、バテレンを苦しめ、そしてバテレンに棄教を迫るのだ。苦しむバテレンは、懸命に神に問いかける。主よ救い給え。しかし神は答えない。神は沈黙したままである。バテレンの苦しみは最高潮に達する。そして神もお赦しになる、と悲しみの中で消極的であるが重大な決心をして、転ぶ(棄教する)。
 神を信じることで、なぜこれほど苦しまなくてはいけないのか。神に問いかけてもなぜ神は答えてくれないのか。そして、神はどこにいるのか。
 作家、遠藤周作の心の中の疑問はまさにここにあったのだろう。
 もうひとつ。遠藤周作の興味は棄教者にあった。フェレイラ師、ロドリゴ神父、そしてキチジロー。この主要人物3名がみな、転び者なのだ。信仰を守り続けた強い人たちは漁師たちであり百姓たちなのである。
 物語は珍しい形式となっている。まえがきとして時代背景や物語が始まるまでの経緯が長いト書きのように書かれている。そしてロドリゴ神父の手紙。リスボンからマカオ、そして日本の地に潜入し、布教活動の様子を細かく記したこの手紙は、ロドリゴ神父の一人称で書かれている。手紙形式の文体は、ロドリゴ神父がキチジローの裏切りによって日本の官憲に捕らえられるまで続く。そして第三の形式として、ロドリゴ神父の思考に沿って物語は進んでいくが、一人称ではなく、「彼は」という主語で物語を展開させている。第二の手紙形式は、困難な布教活動を描き、第三の客観的表現では、棄教へ至る心の変化を描いている。棄教までの心の変化は、一人称に語らせると、必ず自己弁護になってしまうから、客観的な第三者の記述表現にしたのだろうと推察する。
 遠藤は、棄教者に心を寄せている。

沈黙 (新潮文庫)

沈黙 (新潮文庫)

 さて、現在上映中の「Silence−沈黙」。巨匠 マーティン・スコセッシ監督作品。
 原作にほぼ忠実に描いている。
 映画は監督の意志と役者の演技によって完成する。スコセッシ監督の意図を汲んだ役者たちの演技が素晴らしい。本来はポルトガル語で表現しなければならないのだろうが、映画では当然のように英語が使われている。欧州の言葉であれば、英語でもいい。英語でも目をつぶるしかないであろう。
 本作の成功は、シークエンスの見事さもさることながら、配役の見事さに尽きると思う。とにかく観た方がいい。できれば原作を読んでから観た方がいい。宗教という、理解するのに少し時間のかかるものをテーマにしているので、会話も高度に形而上学的だから、映画で初見だと、意味がわからない処がたくさんあると思うのだ。