『二流小説家』(デイヴィット・ゴードン)

第19回 The Serialist

 小欄は映画・演劇関係の著作物を扱っているが、たまには道草をして寄り道をして箸休めをしてみようと思う。愚生もたまにはミステリ小説なぞも読むのだ。

 『二流小説家』(デイヴィット・ゴードン 著)(青木千鶴 訳)(早川書房)(2011)
  『THE SERIALIST』(David Gordon)(2010)

 海外ミステリ小説出版の老舗、早川書房には【ハヤカワポケットミステリー】という新書よりひとまわり大きめの版型の本がある。“ポケット”と謳っている割りには大きめで、コートかジャケットのでないと収まらず、とてもズボンには収まらない。しかし、このシリーズは本の天地と小口が黄色く塗られていて、カバーも軟らかく、なんとなく欧米のペーパーバックに似ているそのデザインがちょこっといかしているのだ。そして中身は縦二段組みでかなり読み応えがある。

 今年の3月、あの震災の月に今回読むこの『二流小説家』が発行された。
 原題は『THE SERIALIST』・・・・・・連載もの著作者とでも訳すのか、よくわからないが、日本語の題名は『二流小説家』なのである。
 日本において、二流とはなんだろう。小説家に限らず他の分野でも云えることだと思うのだが、そこそこうまいがそこ止まり。うまいだけで人の心に残らない。あえて云えば器用貧乏、ということになろうか。そういう立ち位置なので、本職だけでは食べていけない。ほかの仕事をして喰いつなぐ、それが二流の二流たるゆえんなのだろう。
 本書の主人公もまさにそれ。小説家ではあるが、ペンネームをいくつも持ち、ミステリ、SF、ヴァンパイア小説を執筆している。喰いつなぐために書き続けなければならない。二流であるがゆえにとにかく書き続ける。自転車操業というやつだ。連続して書いていくその姿。それが“THE SERIALIST”に込められたニュアンスなのだろうと思う。それでもいよいよ喰うに困りはじめ、女子高生の家庭教師をはじめることになった。
 そしてこの物語がはじまった。
 主人公の名は、ハリー・ブロック。彼が家庭教師として教えることになったのが、クレア・ナッシュという女子高生。ハリーはクレアを教えるのではなく、クレアの宿題のゴーストライターとなる。ハリーが実際にクレアに会ってみると、まるで勉強を教える必要がなかった。クレアは優秀なのである。しかしクレアはなにかと忙しく宿題のレポートを書いている暇がない。かくして小説家のハリーは家庭教師先でレポートの代筆屋となる。ペンネームをいくつも持ち、いつも締め切りに慌てているハリーのマネージャーのような立場に賢いクレアがなるのにそれほど時間は掛からなかった。そしてある日、刑務所に収監されている死刑囚から一通の手紙をもらう。この死刑囚は猟奇的連続殺人事件の犯人としてあと半年以内に処刑されることになっているが、彼は自白をしていない。その死刑囚、ダリアン・クレイが真実を語る、という。その告白本を執筆してほしい、と云う依頼だった。
 むろん、ハリーはその話に飛びついた。だが、そこには交換条件があった。その交換条件こそ、恐ろしい第二の連続女性殺人事件の導火線となるものなのであった。
・・・・・・
 ミステリの醍醐味は、なんだろう。おそらくそれは、いくつかの話が重層的に錯綜・交錯・輻輳している処にあると思う。本書もまさにそれなのだ。
 いろいろな話が絡み合い繋がり合い関係し合う中で、あるページをめくると、そこに出てくる新事実は以前のページにその伏線となる事実が書かれている。読者はすっかり忘れているわけではないが、該当箇所を読むまで、その伏線を実際は忘れているのだ。面白いミステリ小説というのは、そんなことの連続なのである。
 この『二流小説家』もふんだんに仕掛けが施されいるのだが、後半も後半、物語がかなり盛り上がっている処で、この著者は読者についつい打ち明けてしまう、という形で語りかける。
 「これまでのところを振り返ってみると、ページのあちこちに手がかりをちりばめる際、ぼくはどうやらいくつかの答までうっかり洩らしてしまったようだ。」と。
 なんだか、この語り掛けが愚生にはとても新鮮なものに感じられてしまった。著者に対する親近感。
 とても勇気のいることだが、最後の行を書いてしまおう。
 「さて、それじゃあそろそろ本を閉じ、明かりを消してはどうだろう。」
 こんな風に読者に語りかけて、物語を終わらせている。
 この小説は、主人公のハリー・ブロックの一人称で書かれている。全編ハリーが語っている。物語の中の登場人物と会話をして、事件が起こり、彼自身がたいへん危険な目に遭う。そんな時に読者はハリーにひょいと語り掛けられれば、読者としては自分自身もハリーと一緒に物語の中を逍遥しているような錯覚をおぼえるわけだ。それがなんとも楽しい。
 しかし、本書の中身はとても中高生には読ませたくない内容なのだ。残酷な猟奇殺人の現場であり、ポルノ小説まがいの濡れ場もある。それでもなお、ハードボイルドを読んでいるような虚無感はない。主人公の主観を徹底的に表現しないのではなく、むしろ主人公の愚痴に読者は付き合う。それが本書の暖かさになる。残酷で色情的であるにもかかわらず。
 本書の翻訳本が出版される前、本年1月に本書は、最も権威のある「アメリカ探偵作家クラブ賞」(=エドガー・アラン・ポー賞)の新人賞にノミネートされた。そして翻訳本の出版後、4月に受賞作が決定されたが、残念なことに本書は選に洩れてしまった。
 そのことを追加して記載しておく。

二流小説家 (ハヤカワ・ポケット・ミステリ)