『オセロー』(シェイクスピア)

第20回 嫉妬という怪物&キリスト教の勝利−オセローを読む−

 シェイクスピアの四大悲劇の一角を占める『オセロー』という作品は、その完成度においておそらくシェイクスピアの作品の中でも一、二を争うものであろう。読めば読むほど、芝居を観れば観るほど味わい深いものがある。飽きる、ということがない。物語は筋(ストーリー)だけではない、ということの見本のような作品だ。登場人物がすべて興味深く魅力的なのだ。人間を観察して感情の襞まで洞察し続ける物語である。読むたびに新たな発見がある。真の古典とはこのような作品のことを云うのであろう。

 『オセロー』(ウィリアム・シェイクスピア)(小田島雄志 訳)(白水Uブックス)
白水社)(1983初版)(2011第20刷)

 『オセロー』は、嫉妬の物語である。富も名声も持っている男が、嫉妬に狂い身を破滅させていく。最後は死をもって決着をつける。しかし、その破滅は必然ではない。偶然でもない。ある男の故意なのだ。その男、イアーゴは作為をもって上官の将軍・オセローを陥れ、破滅させ、破壊した。
 また、『オセロー』は、差別の物語である。オセローはヴェニスの将軍である。その性格は秋霜烈日にして不撓不屈。また熱烈峻厳。熱く厳しい男である。そして最も大切なことは、彼、オセローはヴェニス人ではなく、ムーア人であるということだ。ムーア人。当時も今も北アフリカに住む人々を指して云うので、ムーア人はサハラ以南の黒人ではない。しかし、この『オセロー』を読む限りオセローをどうやら黒人として扱っているのではないか、と思われる。オセローを指して“黒い――”という表現が散在する。

 『オセロー』を“嫉妬”と“差別”というふたつの言葉から掘り起こしてみる。
 オセローはヴェニス元老院議員の娘、デズデモーナを妻にする。出自も立場も違いすぎるふたりの結婚にデズデモーナの父親は猛反対するが、ヴェニスの宿敵トルコに対抗するために戦上手のオセローは欠かせない存在である、と認識しているヴェニスの公爵らのとりなしによってオセローとデズデモーナは結ばれる。意気揚々と紛争地、キプロス島に赴任したオセロー。楚々と従う新妻のデズデモーナ。しかし、オセローの旗手を務めるイアーゴはオセロが自分を差し置いて副官にキャシオーを選んだことに大いに不満を持つ。今も昔も人事は重大である。そしてイアーゴはキャシオーとデズデモーナの仲をオセロが疑うように仕向けた。偽りの不義密通を仕立て上げる。
 その時、イアーゴがオセローをして嫉妬へと誘い込ませるシーンは“テンプテーションシーン”と云われこの戯曲の中でも有名な場面だ。
 “お気をつけなさい、将軍、嫉妬というやつに。こいつは緑の目をした怪物で、人の心を餌食とし、それをもてあそぶのです。・・・・・・”
 イアーゴの思惑通り、オセローは「緑の目をした怪物」にとり憑かれてしまった。そしてイアーゴはデズデモーナがうっかり落としたハンカチを不義の証拠に仕立て上げ、そっくりそのままオセローに信じ込ませることに成功する。嫉妬心の恐ろしさ。その恐ろしさを「緑の目をした怪物」と表現したシェイクスピアのインスピレーションのもの凄さ。
 イアーゴの八面六臂の活躍(?)により、ここまでみる限り、この戯曲の主人公はオセローではなく、イアーゴではないか、と思うくらいだ。
 悪役イアーゴがなぜ主役に擬せられてしまうのか。おそらくたぶん、ここまで(オセロがすっかり騙されデズデモーナとキャシオーを殺してしまおうと決心する処)、自分の考えで行動している唯一の人物がイアーゴであるからだろうと、愚考するのだ。行動規範を“神の思し召し”に委ねず、また感情と情念のおもむくままに行動していないのはイアーゴだけである。嫉妬にとり憑かれる前のオセローは改宗者であるが故、極めて宗教的に厳格な行動規範を取っている。がしかし、一度緑の目をした怪物に憑かれてしまうと、被っていたキリスト者としての仮面をかなぐり捨ててひたすら復讐心を満たすために猛進するのである。もはや神の恩寵を期待する気持ち、あるいはこころではなくあたまで考えようとする合理的な行動はなりをひそめてしまうのだ。
 この戯曲でもうひとつ大切なことは、“差別”である。同じシェイクスピアの『ヴェニスの商人』という戯曲は、ユダヤ人を露骨に差別することで物語が成り立っている。同じように『オセロー』ではムーア人(=白人ではなく、生まれながらのキリスト教徒でもない)を差別することで、嫉妬心だけがオセロが破滅した原因ではないことを示しているのではないかと思うのだ。
 シェイクスピアがこの作品を書いたその時代(エリザベス朝時代)は、ヨーロッパではトルコ帝国の脅威があった。実際にキリスト教国はトルコ帝国によって徐々に侵略されている。当時地中海の東半分はトルコ帝国の内海と化していた。ヴェニスは対トルコ帝国のいわば最前線に立っている国といってよい。トルコ帝国の脅威はイスラム教の脅威でもある。キリスト教国としてのヨーロッパ諸国はイスラム教という異教への恐怖によって、恐慌をきたしていた、といっても過言ではあるまい。今日のイスラム過激派との対立を考えればわかりやすいだろう。
 キリスト教徒という覆いをかなぐり捨ててしまったオセローをシェイクスピアは自分たちの脅威(トルコ帝国)に擬した。そしてオセローを敢えてキリスト教で禁止している自刃という方法で殺してしまったのだ。オセローは最後の最後で獣のような異教者として死んだ。同じようにキリスト教でないものは、最終的には敗北する。という極めて政治的なメッセージをこの作品から見出すことができる。つまりオセローを殺すことでヨーロッパ第一主義という、最も大切なテーゼを確認しているのだ。
 こうしてオセローが嫉妬にとり憑かれ、軍人としてそしてキリスト教徒としての行動規範をかなぐり捨ててまで、無実の妻デズデモーナを殺し自分も死を選ぶその破滅の道筋。最後の第5幕において、オセローは俄然主役へ躍り出る。イアーゴの云いなりに嫉妬にとり憑かれて妻を殺してしまっただけでは、浅はかで愚かな悲劇で終わってしまうが、その嫉妬を乗り越え、死んでしまった妻、デズデモーナを抱きしめながら愛を語り、美しさを愛でる。破綻しながら言葉を紡ぐ。後悔と愛とそして自らの業績を語りながら自らの体に剣を貫き通す。ヨーロッパ(キリスト教)にその身を捧げながら、しかしそのヨーロッパに裏切られたひとりのムーア人としてオセローは死んでいった。
 『オセロー』を“嫉妬”から読み解くのはとてもわかり易いが、“差別”=反キリスト教から読むのは、すこし危険かもしれない。暴走した議論かもしれない。

オセロー (白水Uブックス (27))