『シェイクスピアのたくらみ』(喜志哲雄)

第23回 シェイクスピアのたくらみ

 興味深いシェイクスピア論を展開している本に出会った。とてもおもしろいのだ。

 『シェイクスピアのたくらみ』(喜志哲雄 著)(岩波書店)(岩波新書)(2008)

 シェイクスピアは、観客の反応を計算して脚本を書いた、という。
 シェイクスピアが最も慎重に吟味したのは、どの段階でどんな情報を観客に提供するか、という問題だった、という。
 また、シェイクスピアは、特定の人物の肩をもったり、特定の主張を支持したりすることを、徹底的に避けている、という。
 シェイクスピアの劇とは、観客が気楽に享受することを許さない劇という。
 どういうことか?
 ドイツの劇作家、ベルトルト・ブレヒト(1987-1956)は、「異化効果」(=劇の世界やその登場人物と観客の間に距離が保たれていること)という理屈を唱えたが、シェイクスピアがまさにブレヒトから先駆けること300年前にその理論を実践していたらしい。
 つまり、その論旨はこうだ。
 特定の人物と一体になって、劇の展開を追うことは、観客にとってとても呑気で快適な行為なのだが、それに安住することをシェイクスピアは厳しく禁じている。つまり観客は、登場人物に感情移入することなく、常に客観的に芝居を観ていなければならない、ということだ。それが「異化効果」であり、それが、シェイクスピアの“たくらみ”であり、彼はそういう芝居を書いている、というわけである。
 では、客観的に芝居を観る、とはいったいどういうことなのか。劇中人物に感情を移入しないこと。特に主人公と一体化しないこと。離れたところから芝居を鑑賞すること。そういう観客の態度がすなわち、「異化効果」なのだ。主人公と一緒になってハラハラどきどきを体験してはいけないのだ。
 本書では具体的にシェイクスピアの戯曲を喜劇、悲劇、歴史劇などのジャンル別に分類し、その分野別に分けた作品群をそれぞれ手にとってシェイクスピアの「異化効果」=“たくらみ”について確認し、分析している。
 シェイクスピアの悲劇は、その“たくらみ”を解説するにあたり、最もわかりやすいテキストになっていると思われる。観客は主人公に感情を移入することなく(つまり同情して涙することなく)、シェイクスピアの悲劇を鑑賞する。
 シェイクスピアの四大悲劇は云うまでもなく、『ハムレット』・『オセロー』・『リア王』・『マクベス』である。
 確かに考えてみれば、我々観客は、これらの悲劇群の数々をその主人公や他の登場人物と一体となり、ハラハラしながら悲しみながら鑑賞する、ということはしない。
 我々はハムレット鬱病を突き放して観ている。オセローの勘違いの嫉妬の愚かさを溜息とともに観ている。末娘の真心を見抜けなかったリア王の蛮行を客観的に観ることができるし、マクベスが運命にそのまま身を任せることなく、わざわざ火中に飛び込むさまを観ることができる。他の登場人物にも感情を移入することなく、序破急、起承転結が整った素晴らしい物語の流れを堪能しながら最終幕まで行き着く。
 本書に拠れば、その“たくらみ”の装置とは、つまり“たくらみ”そのものの正体は、登場人物の独白による情報の提供である、という。登場人物は舞台で自分の思っていることやこれから行おうとしていることを声に出してひとり喋る。つまり、観客は主人公や他の登場人物よりもいち早く今後の展開を知り、そして知ることによって登場人物に対して感情移入することなく、客観的に芝居を観ることになる。そうすることをシェイクスピアは欲した。
 『オセロー』を例に取れば、この芝居で第二の主人公というべきイアーゴーがいち早く第一幕第一場で登場し、自分はオセロー将軍の部下として彼の信頼を得ているが、彼は自分の出世を妨害した、彼が憎い、よって彼を罠に陥れる、ということを延々と喋る。こうして、タイトルロールのオセローが舞台上に登場する前に、観客はオセローとイアーゴーの関係を知ってしまい、イアーゴーがどのようにオセローを罠に陥れるか、というところを興味深く観察することになる。芝居が進行するにつれ、オセローは追い詰められていく。ところどころで次はどんな仕掛けでオセローを唆すか、どのようにやっつけるかをイアーゴーが独白する。それは取りも直さず、イアーゴーを狂言廻しにして、イアーゴーと同じ立場(つまりイアーゴーしか知らないことを共有すること)に立ちながら、芝居を観ることになるのだ。観客はオセローに少しは同情するものの、むしろ腹黒い悪役のイアーゴーの仕掛けた巧みな罠に魅了されるのだ。こうして一般的な悲劇では、悲惨な経験をする登場人物に観客は同情するが、シェイクスピアの芝居では、被害を受ける人物に感情を移入することなく、加害者にも一定の理解を示しつつ、芝居を観ていくことになる。
 この加害者への一定の理解という文脈で云えば、悲劇には分類されていないが、『ヴェニスの商人』がわかりやすいテキストとなっている。観客は1ポンドの肉を取られるかもしれないアントーニオにそれほど同情はしない。というのも観客はアントーニオの親友の婚約者であるポーシャが裁判官に変装しているということを知っているからである。そのことを知っているのは、観客を除けばポーシャ本人と同じく書記官に変装している侍女ネリッサだけだ。さらに、娘の出奔という衝撃に深く傷ついたユダヤ人のシャイロックキリスト教徒への敵意からアントーニオに復讐の刃を向けるが、ポーシャの尽力によりそれは回避されてしまう。逆にキリスト教徒たちからユダヤ人だという理由によって過酷な試練を受けなければならない羽目になる。観客はシャイロックに敵意と同情、反感と共感の両方の感情を持つ。それがシェイクスピアの“たくらみ”だった。
 こうして、シェイクスピアの芝居を観る時、観客は一方的な感情移入から解放され、役者の演技そのものを鑑賞し、そのせりふを堪能する。シェイクスピアのせりふが際だって生きているのは、つまり、観客は余分な感情を持たずにいるため、その分登場人物の膨大な語彙による圧倒的なせりふを味わえることにある。

シェイクスピアのたくらみ (岩波新書)

シェイクスピアのたくらみ (岩波新書)