『女の一生 −杉村春子の生涯−』(新藤兼人)

第22回 大女優 杉村春子

 杉村春子は大女優である。杉村を少しでも知っていれば、大人も子供も男女を問わず、即座に大女優であると誰もが認める。その芝居を観れば、好きとか嫌いとか、そういう感情を抜きにして、芝居のうまさに惚れ惚れと見入ってしまう。素人が観ても、「うまい!」とのけぞるような感動を覚えるのだ。
 杉村春子。1906(明治39年)−1997(平成9年)。享年91歳。新劇女優。文学座所属。
 私の友人に文学座付属演劇研究所の出身者がいる。彼が杉村春子のことを語る時、没後15年を超えてもいまだに、畏敬の念を込めて「杉村先生」と呼ぶ。
 愚生は生(ライヴ)の舞台を観ていない。今となっては手遅れだ。悔しくて残念だが仕方がない。テレビの舞台中継は何度か観たことがある。一番印象に残っているのが、ある大劇場で山田五十鈴と競演している芝居だったが、それはおそらく昭和53年の『やどかり』という芝居だったろうと思う。テレビの中継を夢中になって観続けた。杉村春子の年譜を見ると、この昭和50年代は本人が70歳前後であり、まさに円熟期として女優の絶頂に立っていた頃の芝居であったようだ。この頃になると杉村はテレビのドラマにも出演するようになっていたので、演劇に興味がない人でもみんな杉村のことを知っていた。
 女優として別格の存在であろう。死の直前まで主演女優として舞台に立ち続けた。最後まで現役であり続けた。初舞台が昭和2年。今や歴史の教科書に載っている小山内薫の「築地小劇場」が長い女優人生の始まりだというから恐れ入る。役者は、特に女優は、その大多数が若く瑞々しい時に全盛を迎えるが(本人がそうは思われたくなくても観客などのまわりがそう思う。“むかしはとても可愛かったんだぞ”などと年寄りが老優を指して云う、あれである)、杉村春子の場合はいつも全盛なのだ。常に第一線の現役役者であり続けた。80歳を超えて16歳の役を演じる!(『女の一生』布引けい役(平成元(1989)))しかもその舞台での16歳の布引けいが、最も少女らしく初々しかった、という劇評まであるのだ。
 舞台はもはや観ることが叶わないが、映画は観られる。杉村春子はその演技力によって戦後日本映画の巨匠たちに愛され、たくさんの作品に出演している。小津安二郎溝口健二黒澤明木下恵介成瀬巳喜男豊田四郎などなど、名だたる監督作品で必ずその顔が拝める。
 杉村春子に関する自叙伝・聞き書き・インタビュー・ルポルタージュ・伝記など、数多の著作物が出版されている。おそらく彼女の陽性な性格が人を拒まず、また自ら語ることが好きであったためであろう。

 『女の一生杉村春子の生涯−』(新藤兼人 著)(岩波書店)(2002)

 杉村春子に関するたくさんの著作の中から、この本を選んだ。この夏に封切られた新藤兼人監督の『一枚のハガキ』を観たことが自分の中に強く残っていたからだろう。この映画は新藤監督が99歳で撮ったものであり、監督自らの「老い」を意識して撮った、というようなことをご本人が云っていたからだ。杉村春子のことを考えるとき、「老い」というものを抜きにはできない。
 新藤兼人監督は、1995年(平成7年)に当時89歳の杉村春子を主演にして『午後の遺言状』という映画を撮っている。この作品が杉村春子最後の映画出演になり、さらにこの本作において杉村はこの年の毎日映画コンクールの主演女優賞、およびキネマ旬報ベストテンの主演女優賞を獲得している。この『午後の遺言状』は「老い」というものに正面から向き合い、悲惨で悲しくでも美しい老いを杉村春子乙羽信子・朝霧鏡子の三女優が熟練の演技で表現している問題作であった。杉村春子について綴る本稿では余談になるが、この『午後の遺言状』の劇場封切りを見ることなく、共演の乙羽信子は逝っている。

 さて、『女の一生杉村春子の生涯−』である。脚本家であり小説も書く新藤兼人の文章がうまい。抜群の表現力と豊富な語彙力を駆使して杉村春子を描いている。内容は杉村への愛(むろん欲情的なものではない)で充ちているのだ。
 杉村春子は新劇の俳優である。新劇というのは歌舞伎に代表される伝統的な演劇に対抗して、ヨーロッパ的な芸術志向の演劇を云う。あいだに新派というジャンルがあるが、歌舞伎の旧劇=旧派に対して新派といい、さらに歌舞伎と新派のその商業的な興行を批判して新劇という分野ができた。

 新劇においては、なによりも作品が尊ばれ、演出が重要視され、さらに舞台装置に重きが置かれた。出演俳優も舞台装置のひとつと見なされた。初期の新劇のポスターには演出家と舞台装置家の名前は出ていても役者の名前は載っていなかったという。したがって、戦前の新劇拠点である築地小劇場では、歴史として小山内薫や土井与志などの演出家の名前ばかりが残っている。むろん川上貞奴松井須磨子などの役者が今も知られてはいるが、それは川上音次郎や島村抱月といった演出家とセットで人々に記憶されているのだ。
 杉村春子は役者に徹した。その意味で部品であった。しかし部品に留まらなかった。そして新劇という分野にはあまりこだわらなかった。女性が舞台に上がれない歌舞伎は別として、新派の舞台には果敢に出演している。花柳章太郎水谷八重子との共演はいい勉強になったと、本人も云っている。新派という他流試合を経験して、部品は意志を持ち、云いなりの演技ではなく、自分で考える演技をしていく。「役者は作家や思想家の、思想をただ伝えるだけの道具ではない、という反省がある」と云っている。役者が作者の代弁者だけだったら本を読んだ方がいい。芝居をする限りは、役が肉体化されてなくてはいけない、という訳だ。そのために勉強しなければならない、と杉村春子は云い続けた。
 杉村春子は後に「新派くさい芝居」と批判されるが、本人はほとんど気にしなかったようだ。杉村にとっては“お客さまに楽しんでいただく”芝居をしていくだけなのだ。観客が自分でお金を払って、そしてその芝居が面白く、いい芝居であれば、それでいいではないか、というわけだ。
 1938年(昭和13年)に文学座の旗揚げに参加している。この旗揚げ公演の時から杉村春子は女優として注目された。この時の年齢は32歳。かなり遅咲きと云ってよい。なぜ注目されたのか、新藤兼人の本作では、杉村は年下の医学生と結婚し性に目覚めた。そして演技に開眼した、と云っている。その辺の処を、本ではこんな風に表現している。
 “性が、かの女の、殻をうち破った。殻の中から「女」が出てきた。それを彼女は知らなかったが、周囲が知った。演技そのものが、心のゆれを表現するものだから、自然にそれは演技に表れるのだ。”
 杉村春子は、この時から男を掴んで演技力を深め、進化していったのだ。そしてこれ以降60年間、まさに男を肥やしにして杉村は演劇界の頂点に立ち続けるのだ。
 演技力とはなんだろう。他の人と杉村春子の違いは何だろう。
 ほんの少しの仕草、身のこなし、せりふの云い方、相手との微妙な距離感、そして何よりも間(ま)。すべてに卓抜な力を持った女優であったのが杉村春子だった。
 一方で映画ではほとんどが脇役での出演であった。しかし一度その映画を観たら、杉村の存在が目に焼き付いて忘れられなくなる。舞台と違って映画はカメラがある。つまりカメラが撮すフレームの中で演技するのだ。そのフレームの中でのみ演技する。フレームの中に一人しかいなければ、その人だけが演技している。舞台での芝居は相手とのせりふの受け渡しで成り立つが映画は一人だけの演技が要求される特殊な分野であるといえる。舞台人の杉村はそんな違いにも戸惑うことなく映画でも素晴らしい演技をするのだ。
 愚生は黒澤明の『赤ひげ』で娼家の女主人きんを演じた時の衝撃的な演技力が忘れられない。ほんの少しの出番であるが、画面の中に杉村春子がいる限り、眼はずっと杉村に釘付けだった。あの人が、みんながうまいうまいと云っている杉村春子なのか、と頷いた。このとき愚生は初めて杉村春子を確認した。それから小津安二郎監督作品『早春』だ。杉村は文学座の盟友・宮口精二と夫婦役で出演した。主人公夫婦(池部良淡島千景)とお向かいさんである。杉村が淡島に亭主(宮口)のことを楽しげに愚痴る。その後杉村は家に帰り、宮口に「あんたおかか掻いてよ」と鰹節と削り器を渡す。「はいはい」と云って鰹節を削る宮口。その一連の流れがとにかく素晴らしい。亭主を愚痴り、亭主におかかを削らせる女房。諸兄がまだ観ていないのなら、是非観てほしい。
 杉村春子は、また現在の日本における最高の栄誉である「文化勲章」を断っている。なぜか。本人は口に出していないが、日本のお粗末な文化政策を批判し、また戦前に新劇が受けた迫害と弾圧に対する抗議として辞退したということらしい。勲章を授与するのも弾圧したのも貧弱な政策もすべて同じ国家が成したことだ。そういう理屈で勲章を辞退する、その生きざまがとてもかっこいい。しびれるのだ。
 生の芝居は観られなかったが、この稀有な大女優と同じ時に生きたことがとても嬉しいしそれが誇りである。

 以下の本も参考にした。
『女優の一生』(杉村春子・小山祐士)(白水社)(1970(昭和45年))
『振り返るのはまだ早い』(杉村春子)(婦人画報社)(1986(昭和61年))
『女優 杉村春子』(大笹吉雄)(集英社)(1995(平成7年))
杉村春子「舞台女優」』(人間の記録144)(杉村春子)(日本図書センター)(2002(平成14年))
杉村春子−女優として女として−』(中丸美繪)(文藝春秋)(2003(平成15年))

女の一生―杉村春子の生涯