『現代口語演劇のために』(平田オリザ)

第26回 平田オリザが求めるもの(その3)

 最近どうもはっきりしない。ぼんやりとした落ち着きのない気分。全体として楽しくないのだ。読者諸氏諸兄は如何だろうか。天井がとても低く窓もなく狭くて暗い部屋に閉じ込められている感じ。この焦燥感。閉塞感。不透明感。手詰まり感。あるいは苛立ち感。要するにすべての問題が中途半端にごろごろと転がっているわけで、何も解決していない。何ひとつ終わっていない。震災とか原発とか財政赤字とか消費税とか沖縄普天間基地とか何個所かある領土問題とかTPPとか……。
 でも、やはり、だからこそ、今日も本を読んで、芝居を観て、映画を鑑賞して、演芸に興じる。読んで観て鑑賞して興じて、そして考える。日々、その繰り返しだな。そうは云ってもこれは現実からの逃避かな?
 閑話休題
 今月も平田オリザについて考えてみたい。

 『現代口語演劇のために』(平田オリザ 著)(晩聲社)(平田オリザの仕事?)(1995)

 昨年の12月10日号と先月10日号でご紹介した書籍が、この2書籍。
 『演劇入門』(平田オリザ 著)(講談社)(講談社現代新書)(1998)
 『演技と演出』(平田オリザ 著)(講談社)(講談社現代新書)(2004)

 そして、今月の本書は、最も古い時期に発行された本である。1960年生まれの平田オリザが35歳の時の文章だ。

 先月と先々月で紹介した講談社現代新書の2冊に比べると、文章の勢いがいかにも若い。筆致の勢いがよく、筆が原稿用紙からはみ出してしまっているような処もあったりする。それが却って楽しい。面白いよ、平田くん。
 12月に紹介した『演劇入門』で、平田はこんなことを云っていたっけ。
 「“何を書くか”が初めにくるのではなく、“いかに書くか”が最初にあるのだ」と。そして、「テーマがあるのではなく、表現があるのだ」。さらに、平田オリザは云う。「伝えたいことなど何もない。でも表現したいことは山ほどあるのだ」と。
 平田は、主題・テーマで芝居を書くのではなく、状況を表現するために芝居を書くわけだ。
 そして1月に紹介した『演技と演出』では、演出について演技の方法を絡めた上で、
 「人はそれぞれさまざまな「コンテクスト」を持っているから、せりふを云う人と云われる人が持っているその「コンテクスト」を摺り合わせ、同じにしていく作業を「演出」という。」
 この場合の「コンテクスト」とは、生い立ちや環境で違ってくる言葉の使い方や言葉のイメージの違い、をいうことだったから、この文脈で平田が云いたいことは、違ったイメージの言葉を摺り合わせていくことが演出の作業である。というわけだ。

 今月紹介する本書は、それらの原点になる。時代が違っても平田が主張していることに何ら矛盾する処はない。
 平田が主張する演劇のスタイルは、“現代口語演劇”と呼ばれている。これは平田が一方的に名付けた。この“現代口語演劇”とは何か? どういうものか? を説明するための文章が、本書である。
 平田は云う。“「現代口語演劇理論」は、単なる演技論・演劇論ではなく、人間と世界の見方を示すある一つの普遍性をもったもの。”だと。彼は堂々と胸を張って主張している。
 その理論に拠ると、現代のほとんどの演劇は押しなべて、ある主義主張を唱え、それを声高に述べているが、もうそろそろそういう主張する演劇はやめましょう。……ということらしい。そして、あるがままの姿、人間や世界のそのままの姿を、できるだけ分析的に写し出していこう、と云うのだ。いったいどういうことなんだろう?あるがままの姿を写し出しながら、主義主張を述べることだってできるじゃないか。いや、どの劇団もそうやってるじゃないのかなぁ。と思いながら読み進める。この時点ではまだ、平田の云いたいことが読み手であるやつがれにはわかっていない。ここまでが「第1章 演劇は可能か」。
 次の第2章では、演劇の言葉について考察している。従来の芝居の言葉はふつうの話し言葉ではない。と平田は現状の芝居の台詞について批判する。確かに翻訳調ではある。実際にそんな風に喋るかぁ? と疑問を持つこともある。シェイクスピアの芝居を思い起こせばわかりやすい。シェイクスピアの戯曲に出てくる人物たちのなんと饒舌なことか。なんと説明的なことか。膨大な分量で物凄い形容と修飾の台詞に観客は圧倒される。それは突き詰めて表現すれば、「私はあなたを愛します。」というような台詞が延々と続くと考えてもいいだろう。で、平田は云う。普段そんな風に会話しないでしょ、と。読者諸氏諸兄は、好きな人に愛の告白をする時、どうするのだろうか? なんと云うのだろうか?
 それを実際に演劇で見せているのが、平田の芝居であるのだ。彼は好きな人に「私はあなたを愛します。」とは絶対に口が裂けても云わない、と云う。
 このあたりから、平田の目指す演劇がどんなものかが朧気ながらにわかってくるのだ。そうして、次の「第3章 演技について」に入る。この章では、芝居を作る三者の役割から入るのだ。三者とは、戯曲家、役者、演出家のことだ。
 戯曲家は、言語化できるものはすべて語り尽くす。そこから生み出された戯曲は世界を写す設計図。
 役者は、その設計図に従う者。そこに書かれていることのみを演じる。
 演出家は、役者の想像力を刺激し、作品を点検して責任を負う。
 いささか逆説的になるが、役者は“表現してしまう”のでその危険を乗り越えなければならない、というのだ。つまり戯曲に書かれたことだけを演じるのでる。“「表現」を拒否し、「再現」に徹する。”と平田は云っている。
 平田の芝居を観ればわかるが、まさしく彼の芝居は「表現」ではなく「再現」なのだ。舞台に登場している人物が、普通にてんでんばらばらに喋っている。しかも観客の方を向かずに。平田の芝居を初めて観る人は、舞台上で台詞ではなくアドリブを喋っているのか、と唖然としてしまうのだ。こうして観客は彼の芝居が「再現」である、ということを身を持って体験する。そこには、その戯曲を書いた平田の世界が存在し、役者がその世界の中で(その限られた世界の中で)自由に動いているのがよくわかる。役者は決して平田の構築したその世界から踏み外さない。
 第4章で、平田の劇団である青年団と平田の関わりについて語り、そして最終章である、「第5章 おわりに」に突入する。
 “世界の在りようを力強く示し”、“人の心の在りようを繊細に示す”。
 これが、平田の目指す演劇だ。そのために“現代口語演劇理論”を実践する。自分がそこに存在している、ということの驚き、広大な世界の中でなにかしらの座標軸で示されたその場所に自分がいる不思議さ。自分と他者や社会とを位置づけ、まったく無前提に物語が始まっていく。それを平田は表現しようとしているのだ。
 最後まで読んで、ようやく平田オリザがめざすものがわかった気がした。

平田オリザの仕事〈1〉現代口語演劇のために

平田オリザの仕事〈1〉現代口語演劇のために