『遺体』(石井公太)&『震災死』(吉田典史)

第28回 東日本大震災関連(その1)・・・・・・震災で亡くなった人々

 小欄は、映画や演劇、それに話芸の世界を表現している本を紹介するコーナーなのだが、しばらくは先の震災に関連する書籍を取り上げていきたい。担当している筆者のわがままをどうか許していただきたい。
 3.11。あの震災から1年が経過した。そして昨年末くらいからぼつぼつと震災に関連した書籍が本棚に並び始めた。
 文章の表現者たちが紡いだ作品や震災後の現場を歩いて集めたルポルタージュや、関係者への綿密な取材によって書かれたノンフィクションの数々。
 小欄の筆者としては、それらの作品が気になって仕方ない。そして実際に読んでみたら、どうしても小欄で紹介したくなった。今月からしばらくの間、そういった震災関連本を扱いたい。
 最初は、震災によって死んでしまった人たちを扱った本。

 『遺体 −震災、津波の果てに−』(石井公太 著)(新潮社)(2011)
 『震災死 −生き証人たちの真実の告白−』(吉田典史 著)(ダイヤモンド社)(2012)

 今回の震災については、映像としては津波の様子。後日譚としてそれから逃れ、生き残った人々の話は多いが、実際に犠牲になり、死んでしまった人のことは、ほとんど報道されていない。日本では、死体を取り扱うことはほとんどタブー視されているので、テレビも新聞も実際に遺体を扱った番組や記事はほとんど存在しない。それは遺族の感情に配慮したものであるが、この大惨事を表現するために、遺体をまん中に置き、それを中心にした作品で震災を考えることもとても重要なことだ。遺体を見つめて、この大惨事からどんな教訓を引き出すか、それを今後どう生かしていくかは、残された我々の使命であろう。
 『遺体』は、昨年6月に週刊誌と月刊誌に載せた文章を大幅に加筆したもの。そして『震災死』は昨年オンライン上で発表した作品に加筆したもの。ノンフィクションのライターたちが震災後の現場に入り、震災で死んだ人々とその遺体の世話をする人たちについての作品である。

 『遺体』は釜石市というひとつの場所での遺体をめぐる出来事が時系列で並んでいるので、物語のような感覚で読み進めることができる。遺体を捜索する人。遺体を搬送する人。遺体の検屍をする人。遺体安置所で遺体を管理する人。遺体を火葬するために運ぶ人。遺体に対して供養する人。そういう人たちに取材して、丁寧に筆におろした良品である。
 日本は平和な国なので、日常生活において実際に遺体を目にする機会も少なく、遺体の取扱い方を知っている人はごく限られた人たちだけである。市役所の職員が業務命令で遺体の搬送や保存をすることになったとき、遺体の扱い方もわからず、膨大な遺体の数に圧倒されて精神的にも変調をきたしてくる職員もいる。そんな危機的状況の時、遺体安置所になった中学校の体育館に偶然に立ち合った民生委員が本書の中心になる。この千葉さんという人は葬儀社に勤めていたこともあるので、死後硬直している遺体の扱い方も知っていた。

 検屍をする医師たち。同じく検歯をする歯科医師たち。たくさんの遺体を前にして平静を保ちながら自分に与えられた仕事を行っている。
 また生存者の捜索を命じられていち早く現地に入った自衛隊員や消防署員たちがいつしか、遺体捜索になってしまった、その状況はいままで我々のように被災地外に住んでいる人には知られず、想像もできない過酷な仕事の内容におののく。
 遺体安置所の千葉さんたちが憂慮するのは、遺体の数が多すぎて、火葬が間に合わず、一部身元不明の遺体は土葬にする、という措置が決められたことであった。3月11日から数日間は、例年よりも寒い日が続き、搬送されてくる遺体もまだ傷んではいないが、日を追うごとに陽気もよくなり遺体はどんどん傷んできた。傷んできた遺体は身元確認も難しくなる。また津波による遺体はその衝撃で初めから損傷の激しいものも多く、遺体安置所は厳しい状況が続く。
 結局、釜石市では遺体を火葬してもらえる他の自治体の協力が取りつけられたので、土葬にする遺体はなく、すべての遺体が火葬された。
 本書の終章は、遺体安置所が遺骨安置所になり、それも使命を終えて閉鎖される場面である。遺体をめぐる業務をしていた人々は、震災前のもとの仕事にそれぞれ戻っていくのだ。

『震災死』は、より広く遺体と遺体の処理をしている人のことを扱っている。本書では、身内を津波で亡くした遺族にも取材をしている。
 本書の主題ははっきりしている。単なるルポルタージュではない。本書で訴えたいことは、今回の震災でなぜ、2万人もの犠牲者が出たのか? それを解明して今後の防災や危機管理を考えていこう、という点に尽きる。したがって、取材範囲は、医者、歯科医、精神科医、遺族、消防団員、警察官、災害救助犬調教師、海上保安庁職員、自衛官、新聞記者、週刊誌記者、地震研究者、防災専門家、衆議院議員と多彩である。すべて遺体を身近なものにせざるを得なかった人々である。

 本書で何度も繰り返し訴えているのは、地元の消防団員の犠牲がいかに多かったか、ということだ。そのことはつまり我が国のしくみについて、その欠陥を鋭く指摘し、問題提起しているのだ。国は高い堤防を造り、河口に巨大な水門を造る。造った建造物の管理は各自治体に任せるが、自治体は予算不足から、その管理を地元の消防団員に丸投げした。消防団は任意の民間団体である。消防署の職員ではない。日常では皆、それぞれ仕事を持った人たちの集まりである。彼らがあの津波のとき、手動で水門を閉じ、住民たちの避難誘導をしながら津波の犠牲になった。しかも弔慰金は犠牲者が多すぎて、半分に削減されている。行政も報道機関も我々も、消防団員の犠牲を“かわいそうな消防団員。任務を遂行した崇高な精神。”という視点で片づけている。そこから先、今後の防災対策、危機管理についての踏み込んだ問題を考えようとしていない。と鋭く指摘しているのだ。
 まさに卓見である。我々は死者を悼み、そしてその犠牲を繰り返さない努力をすべきである。自然災害は人間の都合に関係なく起こる。そして同じような悲惨な状況になる。しかし、死者を減らすことはできるのだ。犠牲者を最小限に抑える努力、その対策を国も自治体も我々国民もみんなで考えていかなければならない。
 たいへんな被害だった。かわいそうだ。で終わってしまうわけにはいかないのだ。

遺体―震災、津波の果てに

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震災死 生き証人たちの真実の告白

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