『双頭の船』

 震災から丸二年が経過し、文学の場では悲しみや無常観、諦観だけを表現したものだけでなく、ようやくと云うべきかユーモアに溢れた希望のものがたりが登場するようになった。
 今月は、この2月に初版が発行されたそんな文学を紹介する。

 『双頭の船』  (池澤 夏樹 著)(新潮社)(2013.2.25)

 著者の池澤夏樹は、震災以後も大いに発言している作家である。その姿勢は一貫して鎮魂、自然への回帰、そして反原発である。彼の考えを知りたかったら震災発生から半年後の2011年9月に発刊したエッセイ集『春を恨んだりはしない』を一読することを勧める。本来はこのコーナーで紹介すべきエッセイであった。いまこのエッセイを紹介しなかったことをすこし後悔している。
 その池澤夏樹が震災を題材にしてものがたり(フィクション)を紡いだ。希望に満ちあふれた内容になっているが、一方で「鎮魂」の姿勢も忘れていない。

双頭の船

双頭の船

 本書を手に取ると、表紙デザインが船の矩体のイラストになっている。そして出版社がつけた帯にも船のことが書かれている。それらの事柄から船の話なんだ、と思って読み始めると、実はなかなか船は出て来ない。最初は車で熊を運ぶ話なのだ。それが第1章。
 これは一話完結の短編集の寄せ集めか、と思いながら第2章の「北への航路」を読み始める。
 主人公は西日本に住む若者。海津知洋くん。毎日だらだらと過ごし、すかすかの人生を送っているが、あるきっかけで北をめざす一隻のフェリーに乗り込む。そのフェリーには、特色ある船員たちがおり、そして様々な個性豊かな人々が続々と乗り込んでくる。人間だけではない。動物たちも乗り込む。そのさまはまさに“方舟”の姿そのものなのだ。単なるちっぽけな内海を往復しているフェリーが、徐々に巨大な方舟に変わっていく。
 そのあたりの表現やものがたりの筆運びがたまらない。読者はふつうの震災をモデルにした小説を読み進めているつもりになっているが、いつのまにか、あり得ない壮大で大掛かりなフィクションの世界にどっぷりと浸かっているのである。
 そして、ものがたりがずいぶん進んだところで、第1章の熊を運ぶ話(「ベアマン」)と繋がる。この「ベアマン」が実は本書においてプロローグとも云うべき話であった、ということがようやくわかるのだ。“繋がっている”ということがどういうふうにわかるかと云えば、同じ登場人物が再登場することによって衝撃的にわかるのである。一読者としてその衝撃を実際に味わうことができた。これだから読書はやめられないのだ。読書の持つ醍醐味。いま、「衝撃」とやや誇張して表現したが、実際にはそれはほんの一文で表現されているに過ぎない。むしろ控えめにそっと置かれた一文とも云える。劇的な演出になっている、と思うのは、つまり、そのプロローグである第1章に、登場人物の具体的な名前が出てこないから、ということが後からわかるからだ。第1章には人称代名詞しかでてこない。しかも日本語なので、男女の区別も曖昧。話し言葉も近頃は男女の区別がないからますますわからない。そして第3章で再登場するときには最初から名前が出てくる。が、しかしその人と第1章の人と同一人物という記述はない。この章の最後にさりげなく同一人物である、ということが示唆されている。それが小説好きにはたまらない、まさに“衝撃的な”再会なのだ。作者はその効果をたぶん充分に狙っている。そして楽しんでいる。

 そして本書は、震災をモチーフにしたものがたりであるにもかかわらず、単語として「地震」「震災」「津波」「原発」ということばは一度も出て来ない。“波に壊された風景”、“海からすごいものが来た”、“大異変が起こって人が作った者がなにもかも壊れてしまった”。そして原発事故被害をこう表現している。“空が壊れて人間が入れなくなったところ”、“爆発で空が落ちてしまった地域”と。

 本書では、「鎮魂」の模様も用意されている。死ぬに死ねなくて、さまよいでている死者の魂たち。決してオカルトではなく、またゾンビでもない。善良で穏やかな幽霊たち。生きている人と変わらないようにみえる死者たち。彼らを肯定しながらものがたりは進む。しかし彼らはいつかは彼岸に行かなければならない。作者はその時のことをさりげなく淡々と事務的に表現し、そして、残された人々の心の隙間と悲しみを“こちら側に残った者の魂まで源泉徴収で1割ずつ削いで持っていったのかもしれない”と表現している。

 ものがたりは希望に満ちた終わりを迎える。方舟と化したこの船はいい場所をみつけた。そこには一切の諦観はない。主人公の海津くんも満足な生き方を見つけるのである。
 元気が出る終わり方なのだ。