『関東大震災』

 東日本大震災は三災と云われている。地震津波原発
一方、今年で90周年を迎えた関東大震災はどのような被害があったのだろうか?
よく云われるのは、関東大震災は都市型の震災であり、今回の東日本大震災三陸地方特有の震災である。ということだ。そういう意味で、関東大震災はおよそ20年前に発災した阪神淡路大震災と似ている。建物の倒壊と火災。大きく違うのは火災の規模。関東大震災では東京だけで10万人以上の人が火災によって死んでいる。それともう一つ。関東大震災はでは大虐殺が加わる。震災時に誰が殺されたのだろう。
ここで、記録文学の大御所たる吉村昭の作品を読み、関東大震災を振り返ってみたい。

 『関東大震災』(吉村昭 著)(文春文庫)(文藝春秋)(2011.6.5新装版第12刷)


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表紙の装画は、「大正震火災木版画集」より「国技館炎上」(西澤笛畝 筆)

 関東大震災は、大正12年(1923)9月1日に起こる。しかし、遡ること8年前、大正4年に東京周辺で群発地震が観測された。本書はその群発地震に怯える東京市民の表情から筆を起こしている。東京帝国大学地震学教室の大森教授と今村助教授は、この群発地震の判断について意見が対立した。いずれさらに大きな地震の前触れかもしれないと大胆な予測をした今村助教授。それは単に人心を不安にするだけで、根拠があるわけではない。と今村助教授の意見を否定し彼を叱った大森教授。しかしいま、未来を生きている我々は結局今村助教授が正しかったことがわかっている。
 そしていよいよ、震災発生。被害の状況がわからないことは現代の比ではない。テレビもラジオもない。電気が途絶えたので頼りの無線通信も使えない。人が走って被害を報告するしかないのだ。今回の震災でも被災地では電気が不通になったが、人の移動手段は格段に進歩しているので、被害状況はすぐに全国および全世界が知る処となった。関東大震災では、地震の第一報は電気が途絶えている陸地の通信所からではなく、東京湾に停泊していたコレヤ丸からの無線によるものであった。この知らせによって横浜や東京の湾岸地域の被害状況を政府は知る処となり、そして世界もこの無電によって関東大震災を知った。
 関東大震災では、圧死した人の被害よりも火災による被害が甚大であった。東京だけで10万人もの人々が火災によって死亡している。驚くべき数。日本の家屋は木と紙でできているからめらめらと燃えやすい。それを差し引いてもこの10万という数はやむを得ない犠牲という範疇を通り越している。明らかに行政の不作為と市民の身勝手さ、防災意識の希薄さにその原因があると思わざるを得ないのだ。そして、防火という観点からみれば、江戸時代の方がよほどしっかりと考えられていたように思える。この時代は確実に江戸時代の防火政策から逆行してしまっている。まず、江戸時代には火除地を設けた。しかし大正のこの時代、それらはことごとく密集した家屋に埋め尽くされていた。それから避難者たちの意識。着の身着のままで逃げていない。みんな荷物をたくさん持って、荷車に載せて、行李を背負って移動する。それらに火が燃え移り、瞬く間に延焼していく。という光景が東京のあらゆる所で起こった。市民の家財道具への執着は、本書を読む限り並大抵ではない。荷物に未練を残し、この世に悔いを残しながら炎に包まれ、焼け死んでいくのである。地獄絵図だ。
 東京を襲った地震関東大震災のひとつ前の大地震と云えば、安政江戸地震が挙げられる。安政江戸地震は、1855年(安政2年)に発災しており、関東大震災とは68年間の隔たりがある。考えようによっては、たったの68年。記憶が伝承されているだろう、と後世を生きる我々は思ってしまうが、実際にはそうではなく、安政江戸地震の記憶はなく、教訓は何も残っておらず、したがって関東大震災では同じように、あるいはもっとひどい状態で被害を被ってしまったのだ。
 本書が地震と火災の被害状況の記録を綴ること以上に力点をおいているのは、震災後に起こった大虐殺である。デマが簡単に信じられてしまった。いともたやすく人々の心の隙間に入り込んでいった様を、本書は赤裸々に綴っている。それは人間の持つ最も醜いものに違いない。いま日本では、各地でヘイトスピーチという人種差別と人権無視のデモ行進が行われている。関東大震災のこの悲劇はそれを思い出させる。人の一方的な思い込みは平気で他人を傷つけ、普通に死に至らしめてしまうのだ。善良な市民が鬼のような顔をして特定の人々をリンチにかけて殺した。これは後ろめたい行動の裏返しかも知れない。と読後に思った。執筆子はアメリカにおける黒人への差別は奴隷として黒人を扱った白人の後ろめたさにある、という意見に賛成する。日本においてもそれが当てはまると思うのだ。半島から嫌も応もなく人を連れてきて強制的に労働させていた。その彼らが団結して井戸に毒を投げ入れた。集団で武装蜂起した。警察署を襲った。一般市民を各地で殺戮している。という噂があっと云う間に広まる。しかしこれらの情報はすべてデマだった。
 本書は、この恥ずべき行為は、地震によって一時的に弱気になり疲労困憊で思考停止に陥ってしまった哀れな被災者の行為である。としている。確かにそれはあるだろう。また、何もかもなくしてしまった人々の怒りのはけ口になってしまった、と云えるかもしれない。
 どんな理由があれ、この虐殺の事実は日本の歴史上の一大汚点なのである。

関東大震災 (文春文庫)

関東大震災 (文春文庫)