シェイクスピア・アラカルト18

 本日は午前中、学校では「総合防災訓練」。地域の2町会がわが校を避難所にしている。本部長は町会長。そこに学校の先生と1年生が全員参加した。

 生徒たちはいろいろな係に分かれる。本部付き、受付、避難所、仮設電話、トイレ設営、援助物資搬入と仕分け…etc.

 先生と地域の大人たちに混ざって担当を一所懸命に行っている。併せて大人たちの働く姿も間近に観察している。地域と学校と一体になって、被災後の姿を想像しながら、訓練をする。とても素晴らしい経験になったはずだ。有意義な総合学習だったと思う。

 そんな中で、「シェイクスピア・アラカルト」も稽古に余念がない。
 今日は体育館は使えず、一日中、特別活動室での稽古となった。
 「マクベス」。
 吉田理恵くんは、ほぼ台詞は入っている。しかしながらひとつひとつの台詞にすべてダメ出しをする彩乃木。台詞の解釈。シェイクスピアは台詞しか書いていないから、その時の状況や心情、態度はすべて合理的に想像するしかないわけだ。当たり前のことだが、それがなかなかできない。相手からエネルギーを受取り、それを自分の中で燃焼させ、そしてそれを動力にして作ったエネルギーを再び相手に返す。台詞を受けて応える作業とは、そういうことなのだ。
 そして難しいのは、演技が説明になってしまう、ということだ。これはどういうことなんだろう?彩乃木は、吉田くんがまずい芝居をする時に“演技が説明的になっている”という云い方でダメ出しをする。


  ↑ 吉田理恵くんに演技指導をする彩乃木崇之

 説明的とは、つまり自然ではない、ということなのだろう。いかにも演技をしている。ということだ。自然にそうする。その人物になりきっていない、ということなのだろうと思った。このことは彩乃木に確かめていないが、自分なりに解釈すれば、“説明的な演技”とはそういうことを云うのであろうと思う。
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 舞台は演じている役者も客席の観客もたくさんのことを学ぶ。リアルな装置がほとんどない分、想像力が働くから、どんどん思考が飛躍していく感じだ。
 舞台ではひとつひつの動作にそれぞれ意味がある。それを観る側は敏感に感じ取らなければならない。いい舞台っていうのは、それが自然にやれちゃう舞台なのだろう。
 それが説明的でない自然な舞台なんだ。