『文豪たちの関東大震災体験記』 『銀座復興 他三編』

 関東大震災後、震災をテーマにした文学はあるのだろうか? 素朴な疑問が
生じた。
 大正12年当時の日本文壇を俯瞰してみてほしい。さすがに漱石鴎外は舞台か
らいなくなっているが、田山花袋芥川龍之介泉鏡花与謝野晶子、室生犀
星、佐藤春夫山本有三谷崎潤一郎、有島武雄、里見�嘖、島崎藤村、・・・
・・・・・・・・。今に至るまで読み継がれている大作家たちが東京や横浜で
被災しているのだ。

 震災後、彼らは求めに応じて、いろいろな媒体に自身の“震災体験記”を書
いている。実際に被災した時の様子やその後の苦労、そして大虐殺のこと、復
興について、たくさんの作家たちがたくさんの雑誌に寄稿している。

 『文豪たちの関東大震災体験記』(石井正己 著)(小学館文庫)(小学館
 (2013.8.5)

 まったく手ごろないい本が出版されたものだ。それが本書をみた時の第一印
象だった。

 本書は関東大震災に関する作家たちの文章を集めて編集して抄録したもので
ある。取材にはたいへんな労力がかかったであろうことは容易に想像がつく。
 作家たちが被災した場所別の項目になっている。下町で被災した作家。山の
手で被災した作家。作家たちは、震災とその後の風景を愚直に描写している。
彼らの被災状況が自身の文章によってよくわかる。出版社の求めに応じて筆を
執っているわけであり、商業ベースで書かれている、ということは否めないが、
それでも作家たちはほぼ正直にその時の印象を吐露しているように思える。

 この作家たちの文章を通じて最も印象に残ったのは、東京の下町地域と山の
手地域の被害の甚だしい差である。山の手は瓦が落ちるようなことはあったが、
おおむね建物は倒壊せず、火災も広がらなかった。しかし、下町地域はすべて
が焼け野原になり、累々と死体が折り重なっている状況であり、まさに地獄の
風景が広がっていた。燃えてしまったか(焼死)、踏みつけられてしまったか
(圧死)、川に飛び込み溺れたか(溺死)。10万人を超える死者が出た。

 山の手で被災した作家は、大したことがないとホッと胸をなでおろし、下町
で被災した作家は生命の危険を経験し、そして何もかもを失った。
 気の毒なのは、与謝野晶子麹町区富士見にあった自宅は無事だったが、別
の場所に保管してあった、心血注いで文章を紡いだ本格的な「源氏物語」の現
代語訳の原稿がすべて灰塵に帰してしまった。

 十余年わが書きためし草稿のあとあるべしや学院の灰

 それでも晶子は、気を取り直して昭和に入ってから再び筆を執り、「源氏物
語」現代語訳を完成させたからすごい。

文豪たちの関東大震災体験記 (小学館101新書)

文豪たちの関東大震災体験記 (小学館101新書)

 不思議なことなのだが、彼らは震災をあまり小説にしていない。谷崎なぞは
震災後、東京を捨て、関西に移住してしまう。そして『細雪』が生まれた。震
災時の様子や復興の有り様を表現している随筆、エッセーはたくさんあるが、
物語がほとんどない。
 なぜだろう、という疑問は別の機会に譲る。
 それでも偶然に震災小説と云える作品をひとつ見つけた。

 『銀座復興 他三編』(水上滝太郎 著)(岩波文庫)(岩波書店
 (2012.3.16 第一刷)

 水上滝太郎という作家を諸氏諸兄はご存じだろうか? 本名は阿部章蔵とい
い、明治生命保険の社員であり、実業家だった。いわゆる二足のわらじを履い
た作家である。

 岩波文庫から、東日本大震災後の昨年3月に発刊されたものなので、完全に
震災関連書籍特需を当て込んだ企画ものであろう。
 それでもいい。これで水上滝太郎という作家を知ることになったのだから。

 本書は短篇集である。四つの短編を一冊の文庫に揃えた。
 『銀座復興』というメインタイトルの短編よりも他の作品の方が出来がいい。
しかしこの『銀座復興』というタイトルにはインパクトがある。震災関連に関
心のある執筆子のような読者にとっては本屋さんで平積みになっていたら、ス
ッと本に寄り、手に取ってしまうだろう。しかしながら、話としては凡庸。震
災で何もかもが破壊された銀座をみて、がっくりとした大店の若旦那。もうお
しまいだ、銀座には戻るまいといじけている。しかしそれでも少しずつではあ
るけれど、復興の槌音が響いてくれば、やっぱり一肌脱いで頑張ってみるか、
と思い直す。・・・・・かなり予定調和的な話の運びは、なんだろう、と思っ
たら、それもそのはず、この話は、復興もかなり進んだ、昭和6年の作品だっ
た。

 諸氏諸兄には、是非他の三編の作品を読むことを強く進める。みないい作品
だ。
 震災のその日、鎌倉で被災した著者自身の姿を小説化した『九月一日』(大
正13年)。
 麻布の台地の借家でつましく生活している若夫婦の姿を描いた『果樹』(大
正14年)。
 震災後に各町会で結成された自警団の負を積極的に描いた『遺産』(昭和4
年)。
 どれも秀作なのである。

 『果樹』には直截的に震災のことは出てこない。しかし台地の上の平和な出
来事なので、充分に震災を連想することはできる。山の手は平和な時間が流れ
ているのだ。
 関東大震災をテーマに作品化されたもので白眉なのは『遺産』であろう。震
災が縁でできた人間関係と逆に切れていしまった人間関係をうまく表現してい
ると思う。

 この作品が発表されたのは、昭和4年。やはり震災を描いている優れた物語
が発表されるには、ある程度の時間が必要なのだろう。

銀座復興 他三篇 (岩波文庫)

銀座復興 他三篇 (岩波文庫)