『東京震災記』

 先々月から関東大震災を記録したもの、関東大震災後の文学についてみてい
る。今月は、自然主義文学の大御所、文学史必須の田山花袋先生にご登壇いた
だくことにしよう。

 彼は自然主義文学が文学の中心であった、明治の末から大正のはじめにかけ
ての時期に島崎藤村と並んで文壇の真ん中にいた。しかし、その自然主義が衰
退すると共に中心から外れていく。そして彼は紀行文や随筆に活動の主軸を移
した。そんななか、この関東大震災が起こるのである。

 『東京震災記』(田山花袋 著)(1924)
  文庫版(河出書房新社)(2011.8.20)

 紀行文作家としての花袋の面目躍如である。自分が実際に目にしたこと、耳
で聞いたこと、五感からこの震災をいっぱいに感じて、何を思いどう感じたか
をほぼ余すところなく記録している印象だ。
 したがって、書きっぱなしの感は否めない。もう少し時間を掛けて推敲すれ
ばもっといいものが出来上がったであろうことはすぐにわかる。

 彼が発災時にどこに住んでいたのかは、具体的に書いていないが、彼の自宅
は代々木にあったことは他の資料からわかる。震災直後の花袋は自宅から遠く
下町をみている。山の手の代々木から惨禍に覆われた下町をみる彼の目は冷酷
であり、同情的であり、寂しくもあり、他人事であり、客観的であり、主観的
なのだ。実際に人の感情はひとつではなく、人は幾重にも自分の感情を持つこ
とができる、ということがよくわかる。

 彼は下町の惨状を大いに嘆く。その嘆きは大量の死者に対する哀悼の意味も
むろんあるだろう。焼死体、圧死体、水死体などがごろごろ転がっている中を
探訪しているのだから、その衝撃は想像に余る処だ。

 最初の下町探訪の道すがら、花袋はこんなふうに云っている。

 “無政府、無警察と言ったような状態が一種不思議な気分を私に誘った。一
日で何も彼も変ってしまったように――今までの勢力は勢力でなく、今までの
権威は権威ではなく、全く異った何か別なものが不意にこの地上にあらわれて
きたというような心持を私は感じた。”

 このどことなく他人事のような書きっぷりこそ、彼の真骨頂なのだ。惨禍の
全容が明らかになるに従って花袋は被災者を気の毒がるが、それでもその文章
には被災者に対する感情移入はあまり感じられない。

 “遥かに遠山が――多摩秩父の連山が、午前の明るい日影を帯びて、いつも
と同じように、首都が『廃墟』となったことなどには少しも頓着しないように、
無心に、むしろ無関心に、その美しい色彩を展開しているのを眼にした。”

 彼はすべてが焼けてしまい、死体が累々と積まれている場所で、このように
嘆息するのである。
 執筆子はこれこそ、紀行文、記録文の手本になるような文章だと思っている。
こんな時に悲劇を嘆くだけの描写では読者には伝わらない。むしろこうして惨
状とは関係のない風景を描くことによって一層惨禍を際だたせているわけだ。
 そして、花袋のもうひとつの特徴は、“失われた江戸”というものを常に意
識する、ということだろう。以下の文章は花袋が震災後、ずいぶん落ち着いた
頃、秋も深まった頃に書いた文章である。

 “・・・今では「東京」の中に混じり合って遥かに一隅にその面影を残して
いた「江戸」すらも全く綺麗に跡形がなくなってしまった。惜しいと言って好
いのか、それともそんなものがなくなって好いと言って好いのか、私にはわか
らなかった。”

 この震災で下町の「江戸」はなくなってしまった。すっかり焼け野原になっ
てしまったのだ。
 本書は花袋が生きた時代の東京=江戸と東京が混じり合った汽水湖のような
状態だった東京と別れ、新しい東京を迎える、いわば送迎の書であると云える
かもしれない。

東京震災記 (河出文庫)

東京震災記 (河出文庫)