『地震雑感/津波と人間』寺田寅彦随筆選集

 関東大震災に関する書物については、いちおう今号を最後にする。掉尾を飾るのはやはりこの先生しかいない。関東大震災当時、現役の東京帝大理学部教授であった寺田寅彦先生の随筆を紹介したい。寺田先生の随筆にも“あの日”のことを書いたものがある。それと先月ご紹介した、田山花袋先生の『東京大震災』と読み比べてみるのもおもしろいと思う。

 『地震雑感/津波と人間 寺田寅彦随筆選集』(寺田寅彦 著)(千葉俊二/細川光洋 編)
(中公文庫)(中央公論新社)(2011.7.25)

 寺田寅彦で最も有名なフレーズは、間違いなく“天災は忘れた頃にやってくる”であろう。まさに至言である。発災してまだ3年も経っていない東日本大震災でさえ、その事実に対する世間の感度は鈍くなってきており、いわゆる風化が始まっている。時間が経てば経つほど、だんだんと事実は出来事になり、そして歴史になる。歴史は文献であり、それは自分たちの生活範囲からの切り離しを意味する。事実が歴史になった途端に人は“忘れてしまう”のだ。生活ではなくなるからだ。それを寺田は巧みに表現している。“忘れる”ということばの持つ響きには、恣意的なものはなくなってしまう。わざとやらなかった、とか知っていたので見逃した、というニュアンスを消してしまう。つまり行為者に過失性がなくなるわけだ。とても便利な言葉であるが、それは云い替えれば無責任である、ということに他ならない。この“天災は忘れた頃にやってくる”は、大きな災害に遭ったとき、誰のせいにもすることなしに、ただただ被害があった、ということをうまく表現している。そしてその裏返しとして、その被害を発生せしめたのは他ならぬ自分たちなんだよ、という鋭い指摘があるので、自己反省の警句としていつの時代にも当てはまることばなのだ。

 この“天災は忘れた頃にやってくる”を常に頭のどこかに置きながら本書を通読すると、それだけで素晴らしい防災対策になる。
 寺田は自然科学者なので、自然の出来事を分析する。そして自然と文明の対比、つまり自然とその自然の中における人間の行為をじっくり観察しているのだ。観察した上で、人間の愚かな行動や営みを鋭く批判している。
 本書は、寺田が目の当たりにした関東大震災に関連する随筆を集めたものなので、特にそのように偉大な自然の前の愚かな人間の営み、という視点が顕著なのだろう。
 文明の進歩のために自然との関係に著しい変化が現れた。それは人類のしくみがとても複雑になり、その中の一部が損傷した場合、全体に対して甚だしく大きな影響を及ぼすことが多くなった。と寺田は云う。また寺田はこの複雑な社会の危うさを自然科学者らしい表現で描写している。これについては、そのまま引用しよう。
 「単細胞動物のようなものでは個体を截断しても、各片が平気で生命を維持することが出来るし、もう少し高等なものでも、肢節を切断すれば、その痕跡から代りが芽を吹くという事もある。しかし高等動物になると、そういう融通が利かなくなって、針一本でも打ちどころ次第では生命を亡うようになる。」(「天災と国防」昭和9年11月)
 原始社会は大きな災害が起こっても、人間社会においてもともと設備が整っていないからもとに戻すのも簡単である。しかし高度な文明社会では、災害が人間社会を崩壊させる致命的な原因になりうる、と寺田は看過している。例えば、地震によって断層がおこり、地中に埋め込んだ水道管が破裂して長い間不便な断水の憂き目に遭う。水はなくてはならないものであり、ライフラインの断絶が人間を存亡の危機に導く、という例を挙げている。
 この「天災と国防」という文章は、ほかにもさまざまなことに対する示唆に富んでいる。この随筆は表題どおり、外敵と自然の猛威から国を守ることについての小論なのだ。
 寺田は「国家の安全を脅かす敵国に対する国防策は現に熱心に研究されているであろうが、ほとんど同じように一国の運命に影響する可能性の豊富な大天災に対する国防は政府のどこで誰が研究し如何なる施設を準備しているか甚だ心もとない有様である。」と嘆く。そして、日本のように自然災害の多い国では、陸軍海軍の外にもうひとつ科学的国防の常備軍を設けるべきだ、と提案する。
 このような論旨は、そのまま現在の日本の状況に置いても何ら違和感がない。最近ますます顕著になってきた周辺国との対立(戦争が起こってしまったとき天災が襲ったらどうする?)。各地に建てられている原発の再稼働問題(再び福島第一原発の悲劇がほかの地域で繰り返されるかもしれない)。五輪開催で沸き立っているが、地震の心配は去っていない東京(開催中に首都直下型地震に襲われたらどうする?)。・・・・我々はさまざまな不安にさいなまれている。まったく90年前の寺田と同じ不安を我々は持つ。およそ人間社会は繰り返し繰り返し同じ不安を抱いて日々を過ごしているのだ。それを寺田は、“天災は忘れた頃にやってくる”ということばで表現したように思える。このことばは警句というよりもむしろ観察眼の確かな寺田が、人間の愚かさを形容した至言であるというべきかもしれない。
 最後に一言申し上げるが、この“天災は忘れた頃にやってくる”ということばは本書にはどこにも出てこない。また寺田寅彦の著作物のどこにも書かれていないのだ。しかしながら、本書を精読すれば、寺田の云いたいことはすべてこのことばに集約される、ということがよくわかるのだ。誰かが寺田の著作物からこのことばを導き出したのだろう。その人に大きな拍手を送りたい。
地震雑感/津浪と人間 寺田寅彦随筆選集 (中公文庫)