『シェイクスピアの人間学』

 久しぶりのシェイクスピア関連。大御所の小田島雄志先生の著作を紹介しよう。

シェイクスピア人間学』(小田島雄志 著)(新日本出版社)(2007)

シェイクスピアの人間学

シェイクスピアの人間学

 この「人間学」という言葉について、本書の中で小田島先生は、「「人間学」という言葉は、「神学」に対する語です。」と云っている。ルネサンス期に生きたシェイクスピアは、ルネサンス人らしく、「キリスト教神学を飛び越えて」、古典と云われたギリシャ・ローマを学んでその真髄である、「ヒューマニズム」を吸収した。そして小田島先生はその「ヒューマニズム」を「人間学」と訳した。

 本書の真髄は、まさにそこにある。つまり、シェイクスピアがいかに人間のことが好きで、いかに人間に興味があり、いかに人間そのものを表現しているか、ということに尽きるわけだ。
 ここまで書いて、今号はこれで終わりにしてもいいくらいなのだが、やっぱり少し短すぎるので、もう少し本書を紐解いてみよう。

 シェイクスピアの作品においては、善人も悪人も平等に描いている。それがシェイクスピアの戯曲の大きな特徴と云ってもよい。単純に善人が偉く、そして悪人が最後は滅ぶ、というストーリーにはなっていない。悪人と思われている登場人物にも喜びや悲しみを語らせている。
 たとえば、「ベニスの商人」。金貸しのシャイロックは悪役である。しかし戯曲を注意深く読み、そして芝居を観ると、この話はユダヤ人差別の話であることに気づく。シャイロックの有名なせりふに、「ユダヤ人には目がないか? 手がないか? 五臓六腑が、四肢五体が、感覚、感情、情熱がないとでも云うのか? キリスト教徒とどこが違う、同じ食いものを食い、同じ刃物で傷つき、・・・・・」というくだりがある。ここで観客はキリスト教徒たちによる、ユダヤ人差別の実情を思い知ることになる。このようなせりふをシャイロックに云わせることによって、シェイクスピアは、悪人に心を持たせ、悪人に喜怒哀楽の感情を注入した、と云ってよい。

 悪人も人間である、という前提に立つことは、演劇をはじめ小説や物語など、表現する手段において、現代では当たり前のことであるが、シェイクスピアの生きた16世紀から17世紀にかけての時代では、まさしく画期的なことであったらしい。
 物語を書くとき(読むときでも同じ)、主人公の立場で書く。それが普通であったし、今もそういう手法の物語は多い。しかしシェイクスピアは、彼の書いた戯曲は、そのせりふを云っているその時のその人に立場で書いている。そう小田島先生は云う。主人公から見て敵役は憎しみだけの存在であるから、そのようにしか表現されない。しかしシェイクスピアはそうではなく、敵役の口から出されるせりふを敵役の立場で書いているから、敵役でさえ、愛すべき人間に見えてくる。シャイロックがいい例である。「オセロ」のイアーゴも同じだ。

 シェイクスピアはこのように、善悪を超えて人間そのものを描いているから、その戯曲も誰が主人公であるか、わからなくなることがある。
 人間そのものを描く、ということは、つまり、幸福なときの人間や不幸なときの人間だけを描くのではなく、人間は幸福なときもあれば不幸なときもある、人間には長所も短所もあって、いい面も悪い面もある、ということであり、そういう人間観に立脚した戯曲をシェイクスピアは書いているのだ。だから、時代と場所を超えて、読み継がれ、語り継がれ、演じ継がれているわけだ。

 本書において、小田島先生がいかにシェイクスピアを受け入れていったか、という私的受容史がひとつの章に割り振られている。この部分もたいへん興味深い。
 「ハムレット」の有名なせりふ。「to be,or not to be:that is the question.」をどう訳すか、ということの顛末が書かれている。一般的には「生きるべきか死ぬべきか、それが問題だ」という訳が人口に膾炙していた時に、小田島訳では「このままでいいのか、いけないのか、それが問題だ」とした。本書において、小田島先生はそこに込められた思いを切々と語っている。
 小田島先生はこの「ハムレット」の翻訳を皮切りに、シェイクスピアの全戯曲37本を全訳した。なぜ訳したか、また、なぜシェイクスピアを普及させることにそれほど熱心なのか。
 シェイクスピアは、さまざまな人間の姿を描いている。人はひとりひとり違う。違いを認めて相手を思いやる。シェイクスピアに接すればそういうことがかわるのではないか。
 本書は、シェイクスピアの入門書であると同時にシェイクスピアが貴重な古典である、ということがますますよくわかる好著なのだ。