『日本語に生まれて −世界の本屋さんで考えたこと−』

 不思議な本と出会った。海外で本屋さんを探して、店に入る。そして考える。何を?・・・その地域のことばについて。それからわが日本語について。さらにその地域でことばを使用している人々について。また、日本語を使っている我々自身について。
 そのようなことを辺境の本屋さんや世界の中心のひとつであるロンドンの本屋さんで考え、その想いを綴ったエッセイ。

『日本語に生まれて −世界の本屋さんで考えたこと−』(中村和恵 著)(岩波書店)(2013)

 題名からして不思議だ。海外でその地域のことばに接しながら、日本語と日本語を使用しているこの日本という地域に生まれた自分たちについて考えている。
 学問的に捉えるなら、そういう行為は比較文化人類学とかに分類されるのだろう。
 著者の中村和恵氏は大学の先生であり、詩人でもあり、エッセイシストでもある。実際に歩いてそして文章を書く人のようだ。

 エッセイだからと思い、寝転びながら読めるような本ではない。軽妙洒脱な文章ではあるが、読みながら真剣に向き合わないと途中ではぐれて迷子になってしまいそうな、硬質で難解な内容である。徹底的に人とことばの関係を考えている。読者は一緒にそれに付き合わなければならない。

 太平洋に点在する小国やカリブ海に浮かぶ小国。昔からそこに住んでいる人、あるいは、アフリカから拉致されてその国に住まわざるを得なかった人々。母語はあることはあるが、圧倒的に英語を使う。英語を使わないと情報が得られない。ことばは情報を伝達させる手段であり、そして思考する手段でもある。英語はイギリスとアメリカとオーストラリアとニュージーランドとカナダでしか使われることばにあらず。その5カ国の総人口を上回る膨大な数の人々が英語を使用してものを考え、情報をやりとりしている。

 翻ってこの日本はどうか。日本語だけでものを考え、そして日本語で書かれた本があふれ、外国語ができなくても母語である日本語だけで生活できる。外国語なんかできなくてもまったく不自由しない。世界ではこういう国はむしろ例外のようだ。
 たとえば、中欧エストニアという国がある。1991年までソ連邦のひとつであった。人口はわすか131万人。川崎市よりも少ない人口であるが、人々は母語であるエストニア語を大切に守り、日常的に使用する。そして本屋では世界中の本をエストニア語に翻訳したものをたくさん並べている。ところが、人々は母語エストニア語の他にロシア語とかドイツ語とか英語を使っている。大国に挟まれた小国は他国のことばを習得しておかないと生き残れない。

 なぜ日本では、日本語だけで生きていけるのか。ひとつは日本が周縁の国であり、どん詰まりにある国だったから、歴史的にみてもそれほど他国に翻弄されることが少なかったことが挙げられるだろう。もうひとつは、良質の翻訳文化が根付いているからだろう。明治の先人たちが苦労してヨーロッパ語を日本語にしてくれた。そして諸外国のことばで書かれたものをもともと日本語で書かれたのではないか、と思うくらい上手な日本語の文章に置き換えてくれた人々がいる。そういう素晴らしい環境の中にいるから、我々は日本語しか使えなくても何も不自由しないのだ。日本に住んでいて日本語だけで幸せに過ごせること。これこそこの国の政府が一番に守らなければならないことだ。具体的に翻訳文化をどんどん支援することが望まれるわけだ。

 著者は海外の本屋さんでいろいろなことを考えている。その思考に追いつくのがたいへんだ。
 本書を読んでいる時に、いつもいつも頭のなかでたくさんの音が鳴り響いていたのに、読み終えた途端、急に静寂が訪れた感じだった。
 大音響の原因は以下のような文章が随所に現れているからだ。平易なことばで書かれているが、そのことばの持つ思いは深い。
 「思慮深く力あることばを伝える。大切なことばに丁寧に耳を傾ける。それはひとが生きのびるために必要な、根源的な営みである。」
 本書は、こういうことばに向き合わなければいけないのだ。