『心残りは・・・』

 この人のエッセイは何を読んでもおもしろい。小気味良くトントンと文章が進む。息継ぎが上手な文章なのだ。読み手のことをよく考えている文章。つまり人に読んでもらうことだけを考えて書かれた文章なのだ。自己満足とか自己愛に満ちた文章と対極にあると云っていい。
 さらに映画好きにはたまらない文章のオンパレード。彼の半生をなぞることはそのまま、戦後日本映画の歩みになる。

『心残りは・・・』(池部良 著)(文春文庫)(文藝春秋社)(2004)

心残りは… (文春文庫)

心残りは… (文春文庫)

 名エッセイスト池部良の本は以前も紹介している。2011年5月に「江戸っ子の倅」というエッセイについて書いた。そこではどんなことを書いたか。一言で云えば、ベタ褒めである。第一にことばの選び方が上手である。と褒め、次に各エッセイの最後の一文が素敵だ。と持ち上げ、三つ目に池部良の記憶力の良さがよい文章を書かせている。と大きく感心している。

 今回紹介するものもまったく期待を裏切らない。おもしろいから一気に読める。その当時の時代の雰囲気も余すところなく伝わってくる。明るくテンポのいい文章なので、読者はまったく飽きることを知らずに先に進むことができる。

 本書は池部良が自分の生きてきた道を振り返る形で進む。自叙伝といってもいい。幼少時の思い出、大学での出来事。映画会社に入社したが、役者志望でなかったこと。役者をやることになったきっかけ。そしてスター街道を驀進するが、そこには偉そうなそぶりは微塵も感じられない。照れ屋であまのじゃく的な江戸っ子の気質が見え隠れしている。

 さまざまな映画監督。いろいろな俳優仲間。そしてスタッフの人たち。たくさんの登場人物が本書の中でいきいきと踊っている。

 本書の前半で最も強烈な個性は、池部良のおやじさんである。池部良のエッセイはおやじさんがその中心にある。おやじさんをめぐるさまざまなエピソードをおもしろおかしく文章にまとめているのが、池部良のエッセイの基本だ。そして本書も例外ではない。画家だったおやじさんの池部鈞についてはその本業のことはほとんど書いていない。画家としてどんな絵を描いたか、などはまったくエッセイにはない。家の中で一番威張っているおやじとしての池部鈞をとても楽しく描いている。愛すべき好人物なのだ。

 戦争体験も描かれている。過酷な軍隊生活だが、それをそのまま表現していない。飄々とした表現で書かれているから、読者は戦争が悲惨で暗いものとは思えない。しかし逆に淡々とした表現の中に戦争の矛盾や憎悪を読みとることはできるはずだ。そういう見方をすれば、立派な反戦エッセイになっていると思う。

 しかしなんと云っても本書のメインは映画俳優として数々の作品に出演した時のことを書いているところである。
 エッセイのタイトルになっている人々を挙げてみよう。島津保次郎監督、久我美子木下恵介監督、左卜全黒澤明監督、三船敏郎山口淑子ゲーリー・クーパー山本富士子岡本喜八監督。これらの人々がこの本の中で楽しそうに踊っているのだ。

 この本の最大の謎は、そのタイトルにある。「心残りは・・・」。いったい何が心残りで、どうして「・・・」なのだろう? あとがきにも理由は書いてない。

 本書は池部良の半生記であるが、彼が行ったことや彼の足跡の中で、“あの時にはこうすればよかった、ああすればうまくいったのに”と悔やんでいることがあり、それが題名になったのではないか、と推察するのであるが、実際にそれぞれのエッセイにおいて筆者が悔やんでいるような文言があるか、といえば、それはない。本書の内容がおもしろ過ぎて、悔やんでいる一文を読み飛ばしてしまっているか、と思い、何度も読み返すが、そういう一文はやはり、ない。何度読んでもおもしろいばかりで、悔恨とか痛恨の想いは伝わらない。
 それでもやはり、本書は実は池部良の“悔い”を表現しているものだ、と無理やり定義付けることは可能かもしれない。彼は本書の中でああ云ってるけど、実際はできていないことを記述したものだ、と解釈してみる。江戸っ子の習いで照れが先走り、自分の悔いをストレートに表現していない。ということが云えるかもしれない。
 まあ、どんなことを云っても本書は無類のおもしろいエッセイには違いないのだ。