『ミスター・ホームズ 名探偵最後』

 今年の1月にシャーロック・ホームズのバスティーシュである『シャーロック・ホームズの蒐集』をご紹介したが、今月も同じく、ホームズ物をお届けしたい。そして紹介する本書ではホームズが来日する。さらになんといっても本書のすごいところは、90歳を超えた長寿のシャーロック・ホームズが主人公になっていることだろう。すっかり老人となったホームズが敗戦後の日本を訪問する。また、本書はミステリー、推理小説のジャンルではない。心理描写に重きを置いた他とは少し違ったシャーロック・ホームズのバスティーシュである。

『ミスター・ホームズ 名探偵最後』(A SLIGHT OF THE MIND)
(ミッチ・カリン 著)(Mitch Cullin)(駒月雅子 訳)(角川書店)(2015.3.15)

ミスター・ホームズ 名探偵最後の事件

ミスター・ホームズ 名探偵最後の事件

A Slight Trick of the Mind

A Slight Trick of the Mind

 不思議な本だった。日本への旅行から帰ってきたホームズ。日本旅行中のホームズ。そしてずっと時代を遡って40歳代、壮年のホームズ。この時間の違う三つの物語が入り組んでいるので、最初は戸惑うかもしれない。日本への旅行は1947年、ホームズ93歳。ホームズ年表に拠ると、ホームズは1957年に103歳で死去するので、来日は死の10年前の出来事になる。そして壮年のホームズは1902年の出来事。事件らしい事件ではないが、一応依頼人がいてホームズが謎を解き明かす。相棒のワトソンは外国へ旅行中でベーカー街にはいなかったからホームズ自身の手記、という形を採っている。

 1902年の事件は、「グラス・アルモニカの事件」と名付けられていた。“グラス・アルモニカ”とは何か? 楽器だそうだ。直径の異なる椀状のグラスを大きさ順に並べて、中心を貫く回転棒に突き刺し、回転させながら水で濡らした指でガラスに触れながら音を出すという。魅惑的で甘美な音色らしく、人を惑わす楽器であり、聴く人が神経障害になってしまい、一時は禁止令まで出た楽器だという。その楽器にまつわる事件をホームズが追うのだ。ひとりの女性の行動が奇妙であるためにその謎を解明することになる。しかしこの事件と云えるかどうかすらあやしい事件と1947年の日本への旅行と帰国してからのホームズの話とどう結びつくのか、読んでいる最中にはまったく不明。そしてこの「グラス・アルモニカの事件」はあれよあれよという間に終わってしまう。しかしながら、さすがに作者はちゃんと仕掛けを忘れてはいなかった。最後にこの1902年の事件と1947年のホームズが結びつくのである。

 日本への旅行は、ある日本人からの招待に応じて実現した。ウメザキ氏という神戸在住の詩人、文筆家。彼の弟はヘイシロウというが、ホームズは滞在中この弟を“ヘンスイロ”と呼んでいる。この日本旅行記も不思議な話だ。神戸のウメザキ邸の不気味さ、そしてホームズとウメザキは山陽本線を西に下り広島経由で下関まで向かう。何が目的かといえば被曝地を見学することと山椒の自生木を見つけること、というどうもホームズらしい浮世離れした旅なのだ。その旅の最中に行方不明となって久しいウメザキ氏の父の消息についてふたりは語り合う。ヘンスイロという登場人物も謎に包まれている。我々読者は、彼をこの物語に登場させる必然性はどこにあるのか、とこうことを思いながら読み進めるのだ。
 帰国後のホームズは、正典の記述どおりにイギリスのサセックスで養蜂家をしている。ホームズの周りの人々(兄のマイクロフト、家政婦のハドソン夫人、相棒のジョン・ワトソン)は既にこの世にはいない。マンロー夫人という家政婦と彼女の息子、ロジャーに囲まれて過ごしている。本書の中で現在ともいうべきこのサセックスでの話は日常を綴った日記のように淡々と進む。しかし、物語はここで最も重大な局面を迎えるのであった。

 1947年の日本とサセックスでの物語は、両方ともホームズの老いをクローズアップしている。記憶力がなくなる、観察力も衰える。集中力も続かない。なにより体力がまるでなくなる。杖をついて歩くシャーロック・ホームズ。老いは誰にでも来るとはいえ、シャーロキアンにとっては、なんと悲劇的な描写であろうか。この部分はそんなすべての肉体的な機能が衰えていることを自覚するホームズの自問自答、ホームズ自身の心理描写が興味深い。
 全体として、ホームズが自分自身を客観的に観察している描写が多い。それは名探偵として名を馳せた往年のホームズのやり方を踏襲しながら、老いと向き合うことで確実に近くまできている死を受け入れようとしているホームズを徹底的に描いているのだ。

 本書は映画化されるという、93歳の老ホームズをイアン・マッケランが演じ、日本人のウメザキ氏は真田真之が配役されているという。とても楽しみだ。

Mr.ホームズ 名探偵最後の事件 [Blu-ray]

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