『わたしを離さないで』

 「臓器提供」を考えるとき、人間の持つ臓器の中で肺と腎臓はふたつあるから、生きている人からどちらか一方の提供は可能であり、以前から行われていた。そしてもっと身近なところでは骨髄の提供は幅広く行われている。しかし、それ以外の臓器は脳死の判定をうけた遺体からしか提供を受けられない。なぜならば、ひとつしかない臓器だからだ。死んでしまった人からしか、その臓器は提供を受けることはできない。日本では、臓器提供をするにあたって、人の「死」の定義が大問題になった。「脳死」は人の「死」なのか。「脳死」を巡り医学界、法曹界、宗教界をはじめさまざまな分野の専門家たち、さらに一般の国民も巻き込んで大いに議論されたことはやや記憶に新しい。臓器提供の前段階である、脳死についてあれだけ喧しく議論が起こっているのに、臓器提供を生きている人間から受ける、ということになったとき、それはどういう状況になるのだろう。今は全世界で、「生体臓器提供」は行われていないが、それが行われているとしたら、世の中はどういう光景が広がっているのだろう。
 今回、ご紹介する書籍は、生体臓器移植が日常的に行われている世界を描いた物語なのである。

『わたしを離さないで』(NEVER LET ME GO)(カズオ・イシグロ 著)(土屋政雄 訳)(早川書房)(ハヤカワepi文庫)(2008)

わたしを離さないで (ハヤカワepi文庫)

わたしを離さないで (ハヤカワepi文庫)

 本書は、そういう架空の状況の中の物語である。そして本書は、その時の世の中の状況とか、政府の動きとか、反対者の動向とか、そういうことはすべて省かれ、全編すべて「提供者」(=ドナー)の物語として紡がれている。
 救いのない物語だ。提供者となる彼ら彼女たちは、いったいどういう存在なのだろうか。明確に「クローン」とは書かれていないが、それを匂わしそれに基づいて物語を展開している。どこかの誰かの遺伝子を操作して彼らは生まれ、生きている。そして提供する日を待つのだ。
 キャシー、ルース、トミーの物語。彼らの微妙な関係が淡々と綴られている。幼少期から思春期、そして青年期を一緒に過ごした3人は、これが普通の3人ならば、青春グラフィティ的な甘く切なく、ときに明るくときに重たく描かれ、そしてこうしてみんな大人になりました。と、物語が完結するのである。しかし本書の場合はそうではない。提供する運命にある3人の物語である。行き場のない怒りがある。やりきれない諦観がある。どうしようもない運命が定められている。彼らはそれから逃げ出さず、逃げ出せず、すべてを受け入れている。まったくクローン羊のドリーのようだ。おそらく原作者のカズオ・イシグロもあのドリーのニュースをみて、本書の構想を練ったのではないか、と愚考した。
 正直に云えば、読んでいるのが苦しい。途中で本を投げ出したくなる。逆に云えば、本書がフィクションでよかった。キャシーもルースもトミーもこの世には存在しない架空の人物なのだ。そう自分に云い聞かせながら読み進めたのである。
 人生とはなんだろう。生命とはなんだろう。という問いかけを自分自身にする。ふだんはほとんど意識しない、そういう人生や生命についてあらためて考えてしまうので、むごいけれど意味のある物語である。

 本書を原作とした映画がある。題名や設定、登場人物名もすべて同じ。
『わたしを離さないで(NEVER LET ME GO)』(2010)(イギリス・アメリカ)

 作品のテーマ同様に映像も華やかな処は一切なく、舞台となったイングランドの荒涼とした風景が続く。一時間半の映画の中で、原作から何を生かし何を削るかは製作者の考え次第であるが、原作を読んだ後に映像を観れば不満は必ずある。それは仕方ない。
 若い実力派の俳優たちが見事な演技をしているが、映画は内容が原作の半分にも満たないものなので、後半から始まる心の葛藤が未消化なままで終始してしまっている。

 また本書を原作として日本を舞台にしたテレビドラマがいま放映中だ。
『わたしを離さないで』(TBS)(金曜ドラマ)(毎週金曜21:00〜)

わたしを離さないで DVD-BOX

わたしを離さないで DVD-BOX

 主人公のキャシーを綾瀬はるかが演じている。笑顔は一切ないシリアスな演技。いろいろと突っ込みたくなる処はあるものの、映画ほどは省略されていないので、とりあえず今後が楽しみだ。

 人はなぜ生きるのか? 臓器を移植してまでも生きるべきなのか? 自分の体の一部が使い物にならなくなるということは、つまり死を意味するわけだが、臓器を移植することによって生き続ける権利を得られる。その権利は必ず行使しなければならないのだろうか? 執筆子は、そうなったとき(臓器の提供を受ければ生き続けられるとき)その権利を使用しないと思う。自分の寿命こそは最大の運命なのであるから、その運命を甘んじて受け入れることが、人間として生きている強烈な証であるような気がする。
 ……そんなことを考えた。